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今回は山の日のルーツについて学んでみましょう! こよみの博士ひろちか先生
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『北越雪譜』は第二編で終わりですが、本当は三編、四編と続けたかったようです。実際、第二編は夏のとば口である雪解け時期までしか扱っていません。江戸でベストセラーになった作品ですから、当時の読者も続編を心待ちにしていたにちがいありません。第二編を刊行して2年後、鈴木牧之(ぼくし)は享年73歳でその生涯を閉じました。

押し合いへし合いの年中行事

第二編には年中行事に関する記述が多いのですが、なかでも圧巻なのは正月3日の夜におこなわれる「浦佐の堂押(どうおし)」です。普光寺という真言宗寺院の毘沙門堂でくりひろげられる押し合いへし合いですが、男はみな裸、女は浴衣に細帯をしめ、まれには裸もあり、立錐の余地もないほどで、上に手をあげれば下げることもできないほどだと描写されています。二押し三押しで熱きこと暑中のようで、七押しして止めるのですが、汗びっしょりになるので、手水鉢(ちょうずばち)のなかで水を浴びるひともいました。

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旧暦の3日は三日月の晩ですから、真っ暗闇と言ってもいいほどで、しかも旧暦の正月ですから寒のいちばん厳しい時期にあたっています。そんな時に褌(ふんどし)一丁で大汗を流し、しかも男女入り乱れるような奇習をなぜするかといえば、その年の吉凶にかかわるからです。提灯を掲げた20人ほどの男が小桶に酒を入れ、盃を添えて献じた後、群衆に向けてその酒を撒き散らし、盃を投げます。その盃を得たものは幸運を約束されます。また提灯も破られ、その骨一本でも入手し、田の水口(みなくち)に挿せば、稲のみのりがよくなり、虫もつかないと言われていました。

エエヨウエエヨウ

幸運を得るための押し合いへし合いの争奪戦といえば、岡山市の西大寺会陽(えよう)がとくに有名です。別名「裸祭」といい、こちらは宝木(しんぎ)を奪い合う奇祭として知られています。ほんらい旧暦正月14日の修正会(しゅしょうえ)満願の日と定められていましたが、今では2月の第3土曜日に固定されています。他方、「浦佐の堂押」も越後浦佐毘沙門堂の裸押合大祭として3月3日におこなわれています。明治改暦のとき、新暦の3月3日にずらしたのです。会陽は「エエヨウエエヨウ」と叫び、堂押では「サンヨウサンヨウ」と声を張り上げます。いずれも修正会系統の裸祭ですが、少なくともエエヨウのヨウは陽春を待ちわびることに通じているようです。

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日本最古のミイラ

『北越雪譜』には松尾芭蕉を筆頭に、越後とゆかりのある有名人の名前が数多く登場します。日本最古のミイラである弘智法印もそのひとりに加えることができるでしょうか。かれは貞治2年癸卯10月2日に穀断ちの末、岩坂の地に入定しました。西暦では1363年です。辞世の歌は「岩坂の主(ぬし)を誰ぞと人(ひと)問わば墨絵に書し松風の音」。禅僧のように洒脱です。空海を慕って高野山で密教を学び、遺言によって死骸を埋めず、「枯骸(こがい)生るが如し」と形容され、越後二十四奇のひとつに数えられていました。

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苗場山

奇談ついでにもう一つ。苗場山の山頂には苗に似た草が生えていて、その田は水が枯れず、カエルやイナゴもいて、ふつうの田のようだと牧之は述べています。今はスキー場としてにぎわう苗場山ですが、頂上からの見晴らしは抜群で、佐渡、能登、千曲川、浅間山、さらには富士山までも眺望できる所として紹介されています。牧之は友人3人と連れ立って文化8(1811)年7月に登山しました。旧暦の7月は月切りでは初秋です。ちなみに中秋は8月、晩秋が9月です。中秋の名月とは旧暦8月の満月の意であることは言うまでもありません。

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初夏の雪解け

『北越雪譜』二編のコラム、最後はやはり雪の話題で閉じたいと思います。牧之は夏の頃、江戸の俳人を接待した際、越後ではなぜ家の垣がみすぼらしいのかを問われました。牧之こたえて曰く、それは一丈(3m余)も越すような雪のため、壊れるのを前提としているからである、と。月切りの夏の頃とは、旧暦4月からの3ヵ月を指します。子どもたちが凧揚げを楽しむのも雪の積もっている初春ではなく、初夏の雪解けを待ってのことでした。

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日本カレンダー暦文化振興協会 理事長

中牧 弘允

国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。

中牧弘允 Webサイト
吹田市立博物館Webサイト

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