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今回は山の日のルーツについて学んでみましょう! こよみの博士ひろちか先生
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押し合いへし合いの年中行事

3月3日は奇数の3がふたつ重なる重三(ちょうさん)とよばれる特別な日です。同様に5月5日、7月7日、9月9日もまた奇数が重なり、いずれも五節句と称される祭日となっています。五節句の筆頭は七草粥を食べる正月7日の節供ですが、人日(じんじつ)ともよばれ、人を殺さない日、処罰を避ける日とされていました。3月3日は上巳(じょうし)の節供とも言われ、3月上旬の巳(し、み)の日に川で身を清める風習がありました。しかし、魏(BC403~BC225)以来、3月3日に固定されました。つづく5月5日は端午の節句で7月7日は七夕です。9月9日は重陽(ちょうよう)として知られています。陽が重なると書く重陽が示唆するように、奇数は陽に分類され、月日の組み合わせでは最大数である9月9日はひときわ縁起の良い日とされました。いずれにしろ五節句はすべて奇数で構成されるところに特徴があり、陽をまねくための食事や行事がさまざまに考案されたのです。

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押し合いへし合いの年中行事

陽を味方につけるためには災厄を祓い清めることが肝心でした。3月3日は川で身を清める日だったと述べましたが、いまでも残る流し雛(びな)の行事には雛(ひな)人形にけがれを移して流し去るという観念がひそんでいます。そうした行事としては鳥取市の流し雛が有名です。他方、人形(ひとがた)に切った紙で身体をなで、それを流す風習もあります。これを形代(かたしろ)とも言いますが、罪やけがれをそれに移し難を逃れることは雛人形とおなじです。

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押し合いへし合いの年中行事

3月3日の祓えの行事は平安時代に伝わり、天皇をはじめとする貴族社会の宮中で実践されました。しかし、雛を飾るようになるのは江戸時代の前後からで、飾りかたも最初は毛氈(もうせん)の上に雛を並べていました。雛段の開始は元禄期以前にさかのぼるようですが、雛や調度品が増えるのにともない、段の数も二段、三段と増していきました。江戸の末期になると内裏雛(だいりびな)と称し、左近の桜や右近の橘なども加えるようになりました。このようにけがれの除去よりも雛を飾ることに次第に重点が移っていき、同時に宮中や城内を出て庶民階級にも雛祭りが広がっていきました。

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エエヨウエエヨウ

けがれを祓うという3月3日の行事は雛飾りに特化する一方、川や海に出たり山に登ったりする行事の日としてもその命脈を保ってきました。春のこの日は家にいてはいけない日であり、戸外で身を清める日とされていたからです。西日本では磯遊び、春慰み、山磯遊びなどとよばれ、東日本では山遊び、山行き などと称していました。翌4日を花見の日とすることも広くおこなわれていました。

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奄美や沖縄では旧暦の3月3日は浜下り(うり、おり)と総称される行事の日です。集落をあげて浜に下り、老若男女、それぞれの年齢集団にわかれて遊ぶのです。飲み食いはもちろん、歌や踊りも楽しみました。ところによっては闘牛、競舟、綱引きなどもおこなわれました。

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苗場山

浜下りについては沖縄本島に次のような伝説が伝わっています。島の娘が美しい青年と恋仲になったのですが、青年の正体が蛇であることを知り、母に相談すると、海につかるよう指示されました。娘は蛇の子を流産し、それ以来、3月3日には磯に出て1年のあいだ身についた不浄を海水に流すようになったという話です。

旧暦の3月3日ごろは潮干狩りには絶好の季節です。貝やカニがお目当てですが、外洋に面した磯場では魚やタコを捕るひともいます。奄美大島ではよもぎ餅をもって潮干狩りに行き、初節句を迎える女の子を海水につけ、無病息災の成長を祈願し、おおぜいの人をご馳走でもてなしました。いまでは観光協会やホテルなどが海開きの神事をおこない、観光行事として旧暦3月3日の浜下りを見直すようになっています。

【参考文献】
飯田卓「旧暦三月三日」『月刊みんぱく』2009年4月号、国立民族学博物館。

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日本カレンダー暦文化振興協会 理事長

中牧 弘允

国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。

中牧弘允 Webサイト
吹田市立博物館Webサイト

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