
国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉
教授。吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営
人類学。
キリスト教にはカトリック、プロテスタント、東方正教会などのながれがありますが、ほとんど知られていない宗派に東方諸教会(Oriental Orthodoxy)に属するコプト教会(Coptic Church)やエチオピア正教会(Ethiopian Orthodox Church)があります。コプトとはエジプトのことで、イスラーム以前の民族的キリスト教会です。信者は500万人ほどで、儀礼は原始キリスト教の痕跡をのこし、コプト語でおこなわれています。コプト暦も古代エジプトの太陽暦の系統をひいています。いまのエジプトの日めくりカレンダーには西暦、イスラーム暦にくわえ、コプト暦の日にちが記載されています。
コプト暦では30日の月が12カ月、それに追加日(エパゴメネ)を5日(閏年は6日)くわえて、1年を365日(閏年は366日)としています。年始は9月11日(閏年は12日)です。このコプト暦はエチオピアにも伝わり、同国ならびにエチオピア正教会のカレンダーの基本となっています。


エチオピア暦とグレゴリオ暦のもう一つのちがいは紀元に関するものです。両者ともキリスト生誕紀元ですが、エチオピア暦では7年遅くなります。AD7年がキリストの生まれた年とされ、あたらしいミレニアムは2008年9月12日にむかえています。
エチオピア正教会はコプト教会とともにキリスト単性論を受け入れたことで知られています。単性論とは、父と子と聖霊の三位一体論ではなく、キリストの神性をかれの人性よりも優位に置く神学です。そのためローマ・カトリック教会や東方正教会からは451年のカルケドン公会議で異端とみなされました。ただし、エチオピア正教会やコプト教会は単性論を自認しているわけではなく、非カルケドン派とよばれることもあります。
そしてコプト教会は7世紀以降、イスラームの波をかぶり、アラブ化します。9世紀にはすでに日常言語はアラビア語となりました。他方、エチオピア正教会はアムハラ人を中心にエチオピアの民族教会として機能し、孤立しつつもイスラームの影響を食い止めました。現在、信徒は1500万人から2000万人といわれ、安息日や割礼の習慣など、ユダヤ教起源のものをのこしています。


1889年、メネニク2世が帝位につきエチオピア帝国が樹立されました。そしてエチオピア正教会が国教となりましたが、1974年にハイレ・セラシエ皇帝の退位にともない国教の地位を喪失しました。
そのハイレ・セラシエ皇帝の幼名をラス・タファリといいます。1930年代初頭にカリブ海のジャマイカで発生したラスタファリ運動は、ハイレ・セラシエ皇帝を神とみなし、船によるエチオピアへの帰還をくわだてました。イギリスの植民地的支配を脱する目標として、シバの女王以来、独立を維持してきたエチオピアが脚光を浴びたのです。ラスタファリ運動はレゲエを生み出し、黒人層の解放を希求します。ドレッドロックスとよばれる独特の髪形もこの宗教運動と深い関係もっています。
1960年代に高揚したラスタファリ運動に手を焼いたジャマイカ政府や既成教会はエチオピア正教会による布教を要請します。1970年からエチオピア正教会はハイレ・セラシエ皇帝を神とあがめるラスタとよばれる信徒に洗礼を施しはじめました。わたしは1979年にラスタファリ運動に関する現地調査をおこない、エチオピア正教の教会もたずねたことがあります。「男女席を同じゅうせず」の礼拝にも参列しましたが、フィールド・ノートを見てもエチオピア暦については何の聞き取りもしていませんでした。まだ暦にたいする関心も知識もうすかったのです。


フランス革命暦がグレゴリオ暦を排除するとき、カトリック教会に異端とされた非カルケドン派の暦法を採用したこと(「こよみの学校」第16回参照)、宗主国イギリスの支配からの解放をもとめるとき、アフリカ唯一の独立国エチオピアに希望をつないだこと、そこに共通する戦略はいっそう古い伝統の復活による優位性の確保だったのかもしれません。