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日和見と日知り

今回は日和見と日知りについて学んでみましょう! こよみの博士ひろちか先生
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日和見とは?

先日、英国のウィリアム王子が訪日され、東日本大震災の被災地を慰問されました。石巻では小高い山に登り、花束をささげましたが、それが日和山(ひよりやま)でした。眼下に復興途次の建設現場が広がり、遠くに湾が見渡せる石段上で、王子は軽く頭を垂れ、黙祷をささげました。大震災時、多くの市民がここに登って難を逃れましたが、漁港や市街地は壊滅的打撃を受けました。

石巻日和山の標高は61mあまりあり、公園として整備され、頂上には鹿島御児神社が鎮座しています。江戸時代、ここで観天望気をおこない、同時に航海の安全を神社に祈願していました。観天望気とは気象観測のことをさしますが、統計分析にもとづく予測をしたわけではなく、経験知から予想を立てていました。いわゆる日和見(ひよりみ)をしていたのです。

天気を予想する日和見人

日和とは空模様のことであり、小春日和といえば陰暦10月のうららかな天気を指し、行楽日和といえば行楽にふさわしい天候のことを意味しています。その日和を専門とする人を日和見人(ひよりみびと)と称してきました。他方、日柄といえば、その日の吉凶のことであり、結婚式で大安や友引のときは「お日柄もよく」と形容されます。そのお日柄を判断する専門家が日知り(ひじり)です。「聖」と書いて「ひじり」と読ませる場合もあります。

伊豆子浦(こうら)には「あしたには寅の刻よりこのやまにのぼりて日の出づるを見、ゆうべには、いりぬる日影を見て、風雨の空をうかがうこと、ひと日もをこたることなし」と記された日和見人がいました。かれは毎日、日昇、日没を山に登って観察し、観天望気をおこなっていました。民俗学の宮田登も伊豆の岩科という漁村で一人の老人に会い、かれが岩場の上に坐りつづけ、視線を水平線上において動かさないことを見逃しませんでした。この老人は、海の波の動きから魚群のありかをさぐっていたのです。これを魚見と称し、日和見も兼ねていたそうです。

お日柄の専門家日知り

いっぽう、日知りはそもそも天皇の職能であり、江戸初期の『和訓栞(わくんのしおり)』には「日本紀に聖字をよめり、万葉集に日知とかけり、日徳を知(しら)しめす聖天子の称なり」とあります。つまり、日知りは聖とも書きますが、日の支配者である皇孫のことにほかなりません。たとえば日食のときには、天皇は御殿に簾(すだれ)を垂らして朝礼をしない、という対応をとっています。民間の日知りは「聖(ひじり)」に通ずるとしても、朝廷は古代から日置部(へきべ)や日祀部(ひまつりべ)をおき、日照観測をおこない、日読みに従事してきました。中国風に表現すれば、観象授時に当たります。近世になると、将軍や藩主が日知りの役割りを部分的に担うことも期待されていました。

気象と天体と暦の関係

日和見人のルーツが日置部や日祀部にあるかどうかは想像の域を出ませんが、日和見と日知りは重なる部分がありました。気象観測と天体観測にはたがいに通じあうものがあり、自然暦や文字暦に影響をあたえあっていました。たとえば、雑節と分類される日本独自の節日があります。八十八夜や二百十日がその例ですが、立春からの日数が遅霜や台風の目安となっていました。また、月を見て潮流を察知することは漁師にとっては常識の部類に入ります。

日和山は本州の沿岸部に点々と存在し、江戸時代の千石船から戦前の軍艦に至るまで、その航行を支援してきました。観天望気はその主要な役割りでしたが、魚群探知も兼ねていました。他方、観象授時の任務は王権と不可分ですが、民間の聖=日知りは自然暦や文字暦を通じて全国津々浦々にお日柄を流布させていきました。日和見と日知り、このふたつは天候と天文の情報にかかわり、人びとの暮らしを支えていたのです。

 

参考文献:宮田登『日和見-日本王権論の試み』平凡社 1992。

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日本カレンダー暦文化振興協会 理事長

中牧 弘允

国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。

中牧弘允 Webサイト
吹田市立博物館Webサイト