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薮入りとお仕着せ

今回は薮入りについて学んでみましょう! こよみの博士ひろちか先生
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麻田剛立の弟子に間重富(はざま・しげとみ)と高橋至時(よしとき)がいます。二人は麻田が大坂に開いた天文塾の先事館にあいついで入門しました。1787年、間は32歳、高橋は24歳でした。

そのころ先事館では主に『暦象考成 上下編』を研究していました。これはヨーロッパの天文学を中国語に翻訳した天文暦書です。ところが、その続編が出版され、日本にもわたってきているとの情報がもたらされます。間は質屋を経営し人脈も豊富だったので、首尾よく入手にこぎつけました。『暦象考成 後編』は太陽と月の楕円運動論が基本となっており、上下編の円運動論とは一線を画すものでした。

そんなとき、麻田剛立は幕府から西洋天文学に依拠する改暦に協力するよう求められました。老齢の麻田は間と高橋に白羽の矢を立て、江戸に向かわせることになります。大阪城を警護する同心だった高橋は妻と5人の子どもを残して単身赴任し、町人の間も観測機材を整え1カ月遅れで江戸に到着しました。

二人は幕府天文方で天体観測をおこないながら、改暦事業に従事します。そこでは『暦象考成 後編』にもとづく最先端の西洋天文学をとりいれた改暦が指向されました。1797年、2年半をかけてようやく新暦は完成し、後に寛政暦とよばれるようになりました。

その間、高橋至時は妻を亡くし、改暦後、ようやく子どもたちを江戸に連れてくることができました。間重富も次女を亡くしますが、一時的な帰坂すらなかなか許されませんでした。しかし、改暦事業が終了したあとは、大坂において天文方御用をつとめるようになりました。

間重富とその子の重新(しげよし)に関係する膨大な資料は「羽間(はざま)文庫」として大阪歴史博物館に収蔵されています。2012年には「町人天文学者間重富の天文観測と暦」というテーマ展示が開催されましたが、残念ながらわたしは見逃してしまいました。

高橋至時のほうは江戸の天文方で幕府の御用を継続しますが、1803年、5冊の分厚いオランダ語の天文暦書を預かることになります。それはラランデ暦書とよばれるもので、フランスの天文学者ジョゼフ・ラランデの本のオランダ語訳でした。オランダ語が得意でない高橋はそれでも必死で解読につとめ『ラランデ暦書管見』をあらわし、ケプラーの第三法則と師である麻田剛立の説との酷似におどろくのでした。

高橋至時に関しては、もう1点、どうしてもふれなくてはならないことがあります。それは弟子の伊能忠敬についてです。至時と同じ年に忠敬も佐原(千葉県)から江戸に出てきて、頒暦御用所にある至時の役宅に通いはじめたのです。忠敬は数えで51歳でしたから、数え32歳の至時よりはるかに年長でした。忠敬は隠居して天文暦学を学び、測量にもとづく地図の作成に後半生をかけたのでした。重富もまた忠敬に『暦象考成 後編』を教え、忠敬の使用した垂揺球儀(すいようきゅうぎ。精密振子時計)や象限儀(しょうげんぎ)の製作に便宜をはかったりしました。当時、天体観測、暦学、測量地図の世界は渾然一体とした先端科学の一翼を担っていたのです。

ちなみに、伊能忠敬の墓は、遺言により、浅草源空寺の高橋至時の墓のそばに設けられています。

【参考文献】

鳴海 風『星に惹かれた男たち―江戸の天文学者 間重富と伊能忠敬』日本評論社、2014年。

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日本カレンダー暦文化振興協会 理事長

中牧 弘允

国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。

中牧弘允 Webサイト
吹田市立博物館Webサイト