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三嶋暦-京暦に次ぐ古い伝統

今回は三嶋暦について学んでみましょう! こよみの博士ひろちか先生
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七五三縄と書いて「しめなわ」と読みます。〆縄とか標縄、あるいは注連縄という当て字もありますが、「しめなわ」は七・五・三の数字と縁が深いのです。というのも横に張った縄に7本、5本、3本と藁を束ねて垂らすからです。では、なぜ7・5・3は縁起のいい数なのでしょうか。

それはいずれも奇数で、陰陽の陽にあたるからです。たとえば五節供(節句)のひとつに旧暦9月9日の重陽(ちょうよう)があります。これは陽が重なる極数であり、とてもおめでたい日です。ちなみに3月3日は上巳(じょうし)の桃の節供、5月5日は端午の節供、7月7日は七夕と、いずれも陽が重なる日です。もうひとつの節供は正月7日の人日(じんじつ)ですが、この日は七草粥を食べて祝います。

11月15日の七五三も子どもの成長を祝うめでたい日です。7・5・3を足すと15になり、陽を重ねた日となります。その15日のなかでも、なぜ11月が選ばれたのでしょうか。それは暦学からいうと旧暦、といっても貞享(じょうきょう)の改暦(1684年)以前のことですが、11月15日は二十八宿(にじゅうはっしゅく)のなかでも一番良い日、つまり万事に大吉である鬼宿(きしゅく)の日に決まっていたからです。

厳密にいうと、貞享暦以前の暦では二十八宿は牛宿を除いた二十七宿でした。そして、11月1日の斗宿からはじめ、女、虚、危、室、壁、奎、婁、胃、昴、畢、觜、参、井と宿がきて15日目に鬼宿が当たっていたのです。二十八宿というのは28星座のことで、月が一夜に一星座ずつ宿っていくという発想にもとづいています。それらの星座は黄道(地球から見て太陽が運行する道)と赤道付近にある比較的目立ったものが選ばれ、暦に応用されたのです。もともと中国で生まれたのですが、インドにわたって、牛宿を除いた二十七宿となり、日の吉凶を知るために用いられました。それが唐代に中国に逆輸入され、七曜と組み合わさって「宿曜(すくよう)」となり、日本にも空海によって「宿曜経」のかたちで紹介されました。しかし、宿曜は曜日をしめず現代の七曜とは異なり、もっぱら占いの目的で使われるだけでした。

さきほど、暦学からは七五三は鬼宿日にあたると述べましたが、徳川5代将軍綱吉の子徳松の祝いに端を発するという説や霜月15日に祭りが多いという説などがあります。また幼児の髪置(かみおき)・袴着(はかまぎ)・帯解(おびとき)の行事に由来するという説もひろまっています。すなわち男女とも3歳の時に髪をたくわえはじめ、男児は5歳の時に袴をつけるようになり、女児は7歳になって帯を解きはじめるという江戸時代の、とりわけ武家社会の儀式に根ざしているといわれています。

七五三はたしかにそのルーツを江戸時代に求めることはできますが、肝心な点は明治以降に創られた伝統であるということです。つまり明治政府によって演出された国民文化のひとつにほかなりません。それは家父長的な武家の倫理を基軸に据え、忠君愛国とむすびつくかたちで都市の氏神をつくりだし、東京の行事を全国に拡大していったものだからです。東京では1920年に創建された明治神宮が都民の氏神として初詣や七五三の参詣人を多数集めるようになりました。しかし、関西で七五三が盛行を見るのは戦後になってからです。核家族化にともなう七五三の変化は、15日を中心とした行事の拡散傾向にあらわれています。11月はいわば七五三月間とでもいうべき様相を呈しており、袴着のみがわずかに江戸の名残をとどめています。

【参考文献】
岡田芳朗『旧暦読本―現代に生きる「暦」の知恵』創元社、2006年。
石井研士『日本人の一年と一生―変わりゆく日本人の心性』春秋社、2005年。

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日本カレンダー暦文化振興協会 理事長

中牧 弘允

国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。

中牧弘允 Webサイト
吹田市立博物館Webサイト