



今年は明治150年の記念行事が年間をつうじ各地で多彩に展開されています。暦の上での明治150年は昨年でした。しかし、かずかずのイベントは明治150周年にあたる本年にもちこされています。明治百年の時も100周年の1968年が祝賀のピークでした。しかも、百年の区切りが明治維新や日本の近代化を再評価する官民の動向と軌を一にしていました。

明治百年の記念式典自体は慶応から明治に元号が変わった日(西暦換算の10月23日)に武道館において挙行されました。約1万人の参列者がみまもるなか、佐藤栄作内閣総理大臣が式辞を述べ、天皇陛下のお言葉があり、NHK交響楽団による演奏や明治百年頌歌(しょうか)の合唱などがつづき、首相が音頭を取った万歳三唱で締めくくられました。
明治百年記念事業としては国土緑化運動、国立歴史博物館の創設、明治天皇記の編纂や「青年の船」の実施などがあげられます。国立歴史博物館はのちに国立歴史民俗博物館(歴博)として1981年に千葉県の佐倉に設立されました。わたしが35年間勤務した大阪の国立民族学博物館(民博)と同様、国立の大学共同利用機関としてその歩みをはじめました。他方、「青年の船」のほうは内閣府の管轄となり、わたし自身も2004年に「世界青年の船」の団長として12ヵ国の青年たちと船上生活を共にしました。


明治百年の時、わたしはまだ学部生でしたので、のちに明治百年記念事業とかかわりをもつようになることなど、夢想だにしませんでした。それどころか、大学のキャンパスは学生運動が盛り上がりをみせ、パリではカルチェ・ラタンを拠点とする「5月革命」がおこり、アメリカではベトナム戦争反対を主張する運動が盛んになっていました。2017年に歴博が実施した企画展示「『1968年』―無数の問いの噴出の時代」では学生運動はもとよりベトナム反戦運動、成田空港反対運動(三里塚闘争)、水俣病などにかかわる市民運動、横浜新貨物線反対の住民運動などがとりあげられました。それは歴博が明治百年記念事業として産声をあげた時代のさまざまな意味を問い直すこころみでもあったのです。


他方、明治150年は国家事業というよりも地方分散型の記念事業といった様相を呈しています。明治維新の立役者だった薩長土肥の場合、たしかに長州では明治150年と銘打って萩・明倫学舎の整備がおこなわれ、薩摩でもNHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」にあやかったイベントが目白押しです。しかし、京都では明治維新よりも二条城にちなむ大政奉還150年を強く打ち出しています。会津若松では戊辰戦争150周年の記念事業が展開されています。北海道においては「蝦夷地」から「北海道」へと変更されたことを記念する「北海道150年事業」がくりひろげられています。やや異色なのは、ハワイにおける「元年者」150周年の記念事業でしょうか。明治元年にサトウキビ農園の労働者としてわたった「元年者」をとおして、ハワイ日系移民150周年を記念する式典やシンポジウムが6月におこなわれました。

民博の初代館長をつとめた梅棹忠夫は文明史の観点から「明治百年」に疑問を呈し、「化政150年」を提唱しています。マクロな文明の推移のなかでは文化・文政の時期からかぞえるというユニークな視点を次のようなグラフを示して、説明しています。

これは文明史曲線と名づけられ、Eの化政期からなめらかな上昇曲線がつづき、Cの終戦をはさんでBCDの一時的な陥没はあるものの、Dになると「もはや戦後はおわった」といわれ、ふたたび元のカーブの延長線上にもどります。Aの明治維新は化政期からのリズムに乗っているだけで、明治維新の正統性を奉じる継承者たちの歴史的立場にすぎないと指摘しています。要するに、明治維新は「化政期以来の社会的・文化的変革の進行によってたくわえられたエネルギーによる、一つの政治的結末であった」と結論づけられているのです。
先回のコラム(第128回)で皇紀2600年をとりあげましたが、その観点からすると、Bは1935年ではなく1940年となるのですが、同年のオリンピックも万博も頓挫したことをかんがえあわせると、BCの陥没もそれなりに説得力があるようにもおもえます。
【参考文献】 梅棹忠夫『地球時代の日本人』中公文庫、1980年、133-136頁(初出、1974年)。

日本カレンダー暦文化振興協会 理事長
中牧 弘允
国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。