見る
  • デザイン資料館
  • ちょうどいい和 暦生活
学ぶ 暦生活
  • こよみの学校
  • 星の見つけ方
感じる  暦生活
  • 和暦コラム
  • 旬のコラム
  • 和風月名コラム
  • かさねの色コラム 暦生活
  • 足元のセンス・オブ・ワンダー
  • 二十四節気と七十二候
聞く
  • お問い合わせ
  • プライバシーポリシー

今回は八朔ついて学んでみましょう! こよみの博士ひろちか先生
バックナンバーはこちら
八朔といえば?

八朔(はっさく)といえばふつうミカンのハッサクをおもいうかべることでしょう。ハッサクの一大産地は和歌山県ですが、原産地は広島県の因島(尾道市)です。明治中期にその名がついたといわれ、命名の由来は八朔の頃に食べられたからというものです。旧暦の八朔(8月1日)といえば、新暦ではだいたい8月下旬から9月中旬の時期にあたります。現在では12月ころからハッサクの収穫がはじまるようですが、原木はもっと早く実が熟したのかもしれません。

行事や風習としての八朔

他方、民俗行事としての八朔といえば、雛(ひな)人形や八朔馬をつくったり、贈ったりすることが知られています。厄除けの意味と玩具としての目的があり、こどものすこやかな成長を願う心意が込められています。

イラスト1

また稲作儀礼の面では、早稲の「田の実」を天皇などに献じた風習が古代・中世にはあったようです。それは新穀の豊熟をたのむ行事でもあり、かつ社会的な庇護関係をたのむ贈り物でもあったようです。実際、公家社会でも武家社会でも八朔の日にさまざまな贈答品を献上するならわしがみられました。

家康入城からはじまる祭日と祝儀

江戸時代になると、八朔は幕府の重要な祭日となりました。というのも、徳川家康が天正18(1590)年8月朔日に江戸に入場したところから、それにちなんで大名や旗本などが総登城(そうとじょう)をおこなう日になったからです。この日、大名や旗本は裃(かみしも)や白帷子(しろかたびら、夏用の裏地のない衣服)に身をつつみ、将軍にお祝いを述べ、太刀などを献上しました。それは「八朔御祝儀」とよばれていました。

江戸城の八朔御祝儀にあやかってか、花街の吉原では遊女たちが白無垢(しろむく)の小袖に衣替えし、花魁道中(おいらんどうちゅう)にくりだしました。これは「八朔の雪」とか「秋の雪」と称され、川柳にも詠まれています。
  八朔の雪は質屋に流れ込み
  秋の雪その日降ってはその夜消え

イラスト2
京都伝統「夏のお正月」

他方、京都では芸伎や舞伎が黒紋付の留袖を着て挨拶回りをするのが現行の八朔です。「夏のお正月」ともよばれるほど、あでやかな夏の伝統行事です。祇園界隈では「おめでと~さんどすぅー」「よろしゅう~おたのも~しますぅー」といった京言葉がとびかいます。時間帯は午前10時ころから正午ころまでです。もちろん、京都の芸舞伎の挨拶回りもまた「たのむ」関係にもとづいています。祇園では京舞の家元や茶道・華道の「おっしょはん」とよばれる師匠のところに行って、日ごろの感謝の気持ちを伝える特別の日なのです。

奉公人と農家のうれしくない八朔

八朔にはもう一つ、大切な節目の役割がありました。なぜなら、この日から夜なべ仕事をはじめる目安となっていたからです。半夏生(はんげしょう、新暦7月2日頃)から許されていた昼寝もそろそろ終わりかけていました。大阪では昼寝のことを「日の辻休み」と言い、旧暦の八朔からは「日の辻の取り上げ休み」と称していたそうです。昼寝を取り上げられたり、夜なべがはじまったりで、とくに奉公人にとってはうれしくない日でした。そのため「泣き節句」と称したり、ふるまいの麦饅頭を「泣き饅頭」、あるいは小豆飯(あずきめし)を「涙飯」とよんだりする地方もありました。

イラスト3

さらに加えるならば、農家にとって八朔は三大厄日のひとつに数えられていました。他の二つは二百十日(9月1日頃)と二百二十日(9月11日頃)です。言うまでもなく、農作物に甚大な被害を及ぼす野分(のわき)に見舞われかねない日のひとつだったのです。

以上のように、八朔はめでたい日でもあり、同時につらい日々のはじまりでもあって、悲喜こもごもの節日(せちにち、せつじつ)でした。今では京都の芸舞妓にその伝統が重くのしかかっています。

バックナンバーはこちら

日本カレンダー暦文化振興協会 理事長

中牧 弘允

国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。

中牧弘允 Webサイト
吹田市立博物館Webサイト

こよみの学校