



暦と絵画がセットで作成される例としては、古くは「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」をあげることができます。これはヨーロッパ中世の15世紀につくられた装飾写本であり、城郭がカラフルに美しく描かれています。世界史の教科書などにもとりあげられて有名なのは、ルーブル宮殿を背景に畑で種蒔きする農夫の姿です。時祷書とはキリスト教徒の聖務日課を盛り込んだ暦です。ベリー公がつくらせたものには黄道十二宮のホロスコープが描かれています。


本コラムでもこれまで江戸の絵暦(第40回)や上海の月?牌(第39回)をとりあげてきました。そこでは暦が絵画と組み合わされることで、趣味と実用を兼ねたものとして普及していったこと、また印刷技術の進展と歩調を合わせていたことを指摘しました。今回はインドのポピュラー・アートに顔を出すカレンダーを紹介したいと思います。
インドは19世紀後半からイギリスの植民地としての歴史をもちますが、その時期に西欧の印刷技術を導入し、商業目的の美術が大量に生産・流通しはじめました。カレンダーに関係するのは商業用広告です。インドにもたらされたイギリス製品のラベルやカレンダーにはヒンドゥーの神々が人間味豊かに、しかも多色刷りで美しく描かれました。たとえばサンライト石鹸のカレンダーには霊鳥ガルーダに乗るヴィシュヌ神がその妻であるラクシュミー女神(吉祥天)を両脇に抱えています。なぜ二人なのかという疑問に対し、インドのポピュラー・アートの専門家によると、第2の配偶女神を想定しているが、絵画表現上、同じように描いているとのことでした。
イギリスの場合、カレンダーの印刷はもっぱら石版印刷の盛んなドイツでなされました。他方、インドでもラージャー・ラヴィ・ヴァルマーがポピュラー・アートの発展には大きな功績をあげています。美術史的には、ヴァルマーのはたした最大の意義は神々の姿を人間の形にリアルに表現したことにある、とされています。西洋の画法を取り入れ、インドの伝統を西洋風・近代風に改変したことで人びとを魅了したといわれています。とくにサラスヴァティー(弁財天)にインド上流階級の女性と同様の衣装を身につけさせた姿は王族や新興中流階級の人びとの支持を得たのでした。先のヴィシュヌ神の原画も彼が描いたものです。

もうひとつの意義は、人気画家ヴァルマーが1892年にボンベイ(現在のムンバイ)に印刷会社を設立し、ドイツから技師を招き、印刷機や印刷材料を輸入したことにあります。ラヴィ・ヴァルマー・プリントの印刷画は美術鑑賞用だけでなく、礼拝用にも使用されました。とりわけ女神が正面から礼拝者に視線をおくる構図は礼拝にふさわしいものでした。カレンダー付の印刷画も年があらたまると月表や広告を切り取って、装飾用ないし礼拝用として再利用されました。そして、ラヴィ・ヴァルマー・プリントがインド全土に普及すると、そこに描かれた神々の像がインド人のいだく均一的な神像イメージを形成していったのです。
中国の月?牌では美人画が好まれました。他方、インドではラクシュミーやサラスヴァティーの女神像が人気を博しました。商業広告のポスターでも美人画は希有です。風景画にもクリシュナやその妻ラーダーなど、古代叙事詩や神話的人物画が目立って描かれています。これに対し、江戸の絵暦(大小暦)には七福神や美人画もあるにはありますが、十二支、年中行事、歌舞伎や相撲、動植物や器物、日用生活品などジャンルが多様です。こんなところにも暦やカレンダーをとおして文化のちがいをみてとることができるでしょう。しかし、石版や木版のちがいはあっても、印刷技術に裏打ちされたカレンダー文化の大衆化には共通性も認められます。カレンダーは美術とともに先端的印刷術と組むことで大衆化に弾みをつけたのです

《参考文献》
三尾稔編『インド ポピュラー・アートの世界ー近代西欧との出会いと展開』
国立民族学博物館(2011年)

日本カレンダー暦文化振興協会 理事長
中牧 弘允
国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。