


台湾原住民族のひとつ、ブヌンにはいわゆる絵暦が存在し、戦前、日本の統治下で日本人の好事家や民族学者から注目を浴びました。この民族は中央山脈南部の中部山岳地帯に住み、伝統的にはアワの焼畑農耕や狩猟によって暮らしをたてていました。その儀礼や行事の流れを、記号を使って木板に刻み、祭事暦として使用していました。

この木の暦は檜(ひのき)製で、長さは約4尺、幅3寸、厚さ6分、あるいは長さ1.21m、幅10.8㎝、厚さ9mmと報告されており、厚さに多少のちがいはあるものの、横長の板であることがわかります。この板の三分の一ほどの中央に直径3㎝ほどの穴があり、祭司の家の床柱にかけて使用していたようです。それは「祭りのためのもの」とよばれ、民族学者の馬淵東一は祭事備忘録とでも言うべきものであると述べています。
この暦が祭事暦とか祭事備忘録といわれるゆえんは、1年を均等に月ごとに分割したものでもなければ、月日を示すものでもなく、祭事のある月だけをとりだし、月日に関係なく逐次、記号を付しただけのものだからです。もう少し、具体的に見ていくことにしましょう。


この暦は左から右に移動します。月と月の区別は板の厚みの部分に刻まれた線によって示されます。ブヌンの1ヵ月は月が見える期間だけで、暗夜は加えていません。日数を数えることもしません。1年は12ヵ月ですが、閏年には「休みの月」をおきます。4年に1回の氏族もあれば、3年に1回、あるいは5年に1回という氏族もあったようです。菱型の刻み◆は祭日をあらわします。まず第1月ですが、太陽暦の11月頃にあたり、「耕作(開墾)の月」とよばれていました。の記号は「平鍋で粟を炊き酒を造る」日です。直線の?は「行く」という意味で、四角形□は畑を表象し、その上に鍬(くわ)が描かれています。畑に行って耕作、開墾する日となります。

第2月は「本当の耕作(開墾)の月」です。さかんに仕事に励み、祭りはおこなわれません。したがって、暦にも記載はありません。第3月には15の祭日が刻まれています。〇は箕を意味し、そのなかの3つの丸は餅をあらわしたものです。その隣の祭日には4つの丸がみえますが、右の二つはサトイモ、左の二つはタマネギだそうです。その右隣の二重丸のような記号は、箕なかにアワが入っている状態です。そこから線が上方にのび、山型にくだり、11番目の祭日につながっています。これは「出猟」をあらわしています。その右のおおきな四角形に点々が多数ついているのは、畑にアワをまいた状態をあらわし、鍬が2本おかれています。11番目の祭日の〇は酒甕を象徴し、出猟から戻った男たちを粟酒でもてなす意があったのでしょうか。

第4月は「本当の播種の月」であり、祭日は2つしかありません。
の記号は箕にアワを入れた状態をあらわしています。第5月の
は独楽(こま)をまわす木と独楽と毬(まり)が描かれています。独楽のように早く、毬のように高くアワの芽がのびるようにと願う呪的行為をおこなう日です。6番目の
は茅をあらわし、豚毛をはさんで焼き、いずれアワが稔れば豚を殺して与えるという意味をもっています。

第6月は「本当の除草の月」であり、祭日は存在せず、暦からも除外されていました。第7月は「耳打ちの月」で狩猟の祭りがおこなわれます。鉄砲で鹿の耳を撃つ絵が刻まれています。その隣のは酒を入れる小さな甕をあらわしています。第8月は「雨月?」で祭日もありません。梅雨時にあたります。第9月は粟収穫祭の月ですが、月名の意味は不明です。山豚が逆さに描かれています。第10月は「首飾りをつける月」で子供に首飾りをつけ新しい着物を着せる祭がおこなわれます。第11月が「伐採の月」で「粟倉に積み上げる月」とよぶ村もあり、祭日はありません。最後の第12月は「榛(はしばみ)の木を倒す月」です。男たちは屋根にのぼって榛の木を倒し、酒をふりかけ、狩猟(かつては首狩りも含む)の成功を祈りました。
はサトイモの茎で枠をつくり、そのなかにサトイモを入れて豊作を祈願する日です。
【参考文献】
馬淵東一
「ブヌン族の祭りと暦」『馬淵東一著作集』第3巻所収、社会思想社、1974年。
横尾生
「続ブヌン族の絵暦に就て(上)」『理蕃の友』第2巻(復刻版)、緑蔭書房、1993年。

日本カレンダー暦文化振興協会 理事長
中牧 弘允
国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。
著書に本コラムの2年分をまとめた『ひろちか先生に学ぶこよみの学校』(つくばね舎,2015)ほか多数。