
金は秋を象徴する色。秋の風は金風(きんぷう)です。木々の黄金色や黄色は青い空によく映え、輝いているようにみえます。日本の野山に色づく黄葉はホッと心が和む、あたたかい風景を作り出します。
かさねの色目の櫨(はじ)は黄櫨色の略で、表は朽葉、裏が黄。いち早く色づくウルシ科のハゼノキ、正式には山黄櫨(やまはぜ)の黄色です。ハゼノキは沖縄経由で入ってきた樹木で、かつて実から木蝋をとるために栽培され、細工物や蝋燭の原料とされていたようです。その野生化したものが現在、本州の野山に生えているハゼノキだそうです。
山深み窓のつれづれ訪ふものは 色づき初むる櫨の立ち枝 西行
最初は緑の中に交じる鮮やかな黄色ですが、次第にオレンジになり、最後には真っ赤に染まっていきます。その美しさが愛されたようで、和歌にも多く詠まれています。
もずのゐる櫨の立枝のうす紅葉 たれ我が宿の物と見るらむ 藤原仲実
柿や木の実をついばみにやってくるモズの嬉しそうな鳴き声は、まさに秋天に響き渡るかのように、清々しく空気を切り裂きます。鵙日和(もずびより)という季語もあり、昔も今も変わらない風景です。
天之波士弓(あめのはじゆみ)は古事記にも登場し、ハゼの木で作った弓は神聖なものとされていたようです。
ひさかたの天の門(と)開き 高千穂の岳に天降りし 皇祖の神の御代より
はじ弓を手握り持たし 眞鹿児矢を 手挟み添へて 大久米の ますら健男を 先きに立て...
この万葉集の長歌は、大伴家持の家に伝承されていたものといわれています。
ハゼノキは年数を経ると、芯が鮮黄色になり、その芯材の煎汁を使って染めたものが天皇が儀式で着用する胞衣の黄櫨染(こうろぜん)で、もっとも高貴な色とされていました。黄櫨染は櫨(はじ)に蘇芳をかけた、深い赤みのある黄色です。
中国で黄色は皇帝の色とされ、9世紀の嵯峨天皇がそれに準じて黄櫨染を禁色としたようです。陰陽五行で春は東の青(木)、夏は南の朱(火)、秋は西の白(金)、冬は北の黒(水)ですが、そのすべての循環を司るのが黄(土)で、黄色は中央にあって統治するものの象徴でもありました。輝く太陽でもあるのでしょう。
この黄櫨染で染められる文様が、「桐竹鳳麟(きりたけほうりん)」です。
龍、麒麟、鳳凰、玄武を四霊といいますが、いずれも幻獣です。鳳凰は桐の木にのみ巣を作り、竹の実と甘露だけを食すという伝説から、桐に鳳凰はつきものとなり、桃山時代の能衣装にも、華麗な「桐鳳凰文(きりほうおうもん)」が使われています。
そこに麒麟も加わった幻想的な「桐竹鳳麟」」は、もっとも格の高い吉祥文様で、現在は婚礼衣装などに使われていますが、かつては天皇にしか許されない特別なものとされていました。故ダイアナ妃に献上された打掛けも、この文様だったそうです。
桐、竹、鳳凰、麒麟。摩訶不思議な組み合わせですが、人々の願うユートピアは幻想文学の如く、空想的な文様を生み出します。たとえば猛々しい獅子は牡丹の花を好むとされており、「牡丹に獅子」は謡曲の『石橋』や、歌舞伎の『連獅子』の重要なモチーフとなり、文様の世界では邪気を払う強力な魔除けとして「唐獅子牡丹文」がしばしば使われてきました。これは百花の王である牡丹と、百獣の王である獅子の組み合わせです。
一方、霊獣としての麒麟は鹿の身体に、龍の顔、牛の尾と馬の蹄を持ち、背中には鱗があるという不思議な生き物です。神聖な存在で、植物を愛し、生きた草は食べないため枯れ草だけを食み、歩くときは虫を踏まないほど穏やかで優しく、何よりも平和を愛していますが、必要なときは闘いを厭わず、果敢に攻撃することもあるとされ、まさに天下を治める理想的な人物にふさわしいイメージです。こんなふうであったらいいなあ、というものが具象化され、長い年月の間に定着していくのでしょう。
黄色はなんといっても、希望の色。人々を救い、癒し、心を活性化する色です。着物の黄八丈は、やはり秋がいちばん似合います。寒くなった夜に灯る家々の黄色い明かりもあたたかく感じますし、淋しくなっていく景色の中にポッと咲く菊の黄色もよいものです。石蕗(つわぶき)のつぼみが大きくなってきました。もうじき石蕗の季節がやってきます。私の好きな一句です。
石蕗の花こころの崖に日々ひらく 白虹
