
君が手もまじるなるべし花芒 去来
私が大好きな句です。味わい深く、毎年、すすきを見る度に思い出す句です。すすきの穂が手招きしているような、さようならと手を振っているような。一斉に揺れる姿の中にたったひとつ、あの人の手がまじっているだろうか、そんなイメージが湧いてきます。
何度も何度も、上下に揺れるその姿は、生き別れた大切な人、亡き人の幻の手のようでもありますし、土地の神がまたおいで、と優しく挨拶してくれているようでもあります。揺れるものには霊力があるとされてきたのも、そこに見えない不思議な存在や力を感じたからかもしれません。
陽を浴びるすすきの穂は白く、つやつやとして、眩しいほどの明るさですが、ゆらゆらと一斉に空を泳ぐその姿はどこか寂寞として、秋のもの悲しさを誘います。すすきは薄、または芒と書き、秋の七草のひとつ、尾花でもあります。
かさねの色目の「花薄」は、表は白、裏は薄縹(うすはなだ)です。
裏の青は葉の色とされていますが、私は秋の空を想像します。薄青く、爽やかな空の色。ひんやりとした初秋の空気は、まさに爽やかです。
「爽やか」という言葉は秋の季語で、現在は初夏でも、夏でも年中使っていますが、本来は乾いた秋風が吹く、さっぱりとした気持ちよさをいいます。
夏の間の蒸し暑さがなくなり、すべてが鎮静し、余計なものが削ぎ落されたような静けさをともなっています。心がすっと落ち着くのが、本当のさわやかさなのかもしれません。夏の狂騒が終わり、内面が整っていくときでもあります。
「爽やか」の派生語として、涼しさも併せて、爽涼(そうりょう)、秋爽(しゅうそう)という言葉もあります。夏を無事に過ごせたことへの安堵もあり、昔の人は、この清々しさをことのほか尊んできたのではないかと想像します。秋に咲き出す淡いピンクの秋海棠に西瓜の色をみる、こんな芭蕉の句もあります。
秋海棠西瓜の色に咲きにけり 芭蕉
去りゆく夏を思いながら、秋は深まっていきます。初秋は空が美しい季節でもあり、日々変わる夕焼けが、あすの天気を予報するかのように刻々と変わって見飽きません。
台風の季節でもあり、台風一過のあとの清々しさは「野分」「野分晴れ」として、多く歌に詠まれています。なぎ倒され、激しい風の爪痕を残す荒涼感と、吹き払われたような美しさが同時にあり、すべてを飲みこんで流れてゆく、生々流転のもののあはれを感じさせます。燕たちは集団でねぐらを転々としながら、徐々に南へ移動し、さわやかな空気が一段と冷えこみを増してくる頃、ふっと金木犀の花が香り始めます。
初秋の今、真っ白なすすきの穂と、さわやかな秋の空を眺めてみてください。
