
田植えの季節を迎えました。まだ弱々しい苗が豊かな水に浸かり、ひよひよと風に震えている姿は、これから始まる日々への、希望に満ちた風景です。初夏の陽射しを受けた稲の苗は日毎に成長し、ほどなく始まる梅雨の雨の中を受け、ますます元気に育っていきます。
はれたりふつたり青田になつた 山頭火
私は子供の頃、旅の鈍行列車の窓からみえる田園風景を眺めるのが大好きで、それは今もまったく変わっていません。青田の中に点々と白鷺が佇むのどかな風景をみると、無性にうれしくなります。畦や水路脇に添え物のように生えている河骨の若緑の美しさも、子供ながらに心に焼き付いています。お百姓さんが働く姿もみえます。
なんと美しい。なんと平和な。これこそ日本の原風景ともいえるものでしょう。
この日本の原風景が昔から多くの人に愛されていたことを教えてくれるのが、江戸時代に流行した「稗蒔き」という小さな盆栽です。江戸時代の日本は世界でも稀な園芸大国で、大名や寺は競って庭園に力を注ぎ、庭を持たない長屋暮らしの庶民たちも、季節ごとにやってくる棒手振りから、さまざまな鉢植えを買っていました。珍しい栽培品種は高値で売られていましたが、季節落ちしたものは安値になるなど、庶民でも気軽に買えるものがありました。
初夏の定番が、発芽してまもない稗の苗を田んぼに見立てた「稗蒔き」で、平べったい素焼きの鉢に、作り物の白鷺や案山子、農家、橋などのミニチュアを添えた即席の盆栽で、大変人気があったようです。
江戸には地方出身者も多く、小さな鉢植えの中に、白鷺の舞う豊かな田園風景に、遠く離れた故郷を想像して、楽しんだことがしのばれます。稗は稲にとっては邪魔な雑草で、そのために除草剤を撒いたりするわけですが、昔は稗にもそれなりの需要があったわけです。
私は江戸時期の和本を自作の手帳の資料としてよく使うのですが、さまざまな絵師が度々、描いているので、この「稗蒔き売り」の存在に気づきました。鉢植えだけでなく、青竹売りや、簾売り、野菜売りや魚売りなど、さまざまな旬のものを担いで売歩く棒手振り(ぼてふり)はまさに季節の風物詩でもあり、その売り声を訊くだけで、季節を感じる文化もあったのです。
かさねの色目としての「苗色」は表が薄青、裏が黄ですから、重ねれば緑色ということになります。稲の苗のような黄緑、明るい萌葱色です。単色としての「若苗色」も平安時代から「夏の色」だったようです。志ま亀という京都の老舗の呉服屋さんが得意とする色で、ハッとするような黄緑は、滋味深く古典的でありながら、なんとも華やかです。
皐月は森も野原も、万緑に包まれるときでもあります。大地に目をむけると、多くの草に入り交じって、ブナやナラなどの樹木の双葉や幼樹を見ることができます。大木として見慣れた樹木も、最初はこんなに小さいのだと、毎度のことながら驚かされます。
小さいながらもブナはブナ、ナラはナラ、カエデはカエデの葉をつけて、元気よく芽吹いていますが、その多くは陽当たりが十分に得られなかったり、他の植物に負けてしまったり、人間や動物に踏まれたりして、年々淘汰されてゆき、最後に大樹となれるのはごくごく稀なことです。
今、繁々と緑に覆われ、サワサワと葉ずれの音を立てている大きな大きな樹木たちが、どれも奇跡のような一本なのだということに気づかされます。大木となった木は多くの鳥を匿い、虫や蝶を養い、苔や菌類を携え、人間や家を強い風から守り、ひとつの見事な生態系を擁しながら、すっくと立っています。「苗色」はそんな新芽や、儚い幼樹たちの色でもあるかとおもいます。大地の小さな苗にも目をとめて、愛しんでいただければと願います。
