
枯野というと、どんなイメージが広がるでしょうか。私は枯野というものは明るいものだという実感を持っています。
秋の野原は小さな種々が一斉に目立たないさまざまな花をつけ、やがて穂草になり、風に揺られてふわふわと綿毛を飛ばしたり、種をはじき飛ばしたり、それぞれのやり方で、次の年の準備をすませます。しっかりと役目を果たしたものたちが枯れて白く乾いていく頃が、冬の始まりだと感じます。
森では木々が一斉に木の葉を落とし始め、みるみるうちに裸になって大量の落ち葉があたたかい布団のように敷き詰められますが、鮮やかな黄色や赤の木の葉も日毎に色が抜けてゆき、白っぽくなっていきます。
冬の景色は土も乾いて、全体的に大地が白く変わり、晴天の空があれば、なお一層、明るく感じられるものです。木陰で暗かった林にも光がよく入るようになり、広々と明るく感じられます。野は遠くまで見渡せるようになり、思いがけない景色が広がっていたります。
行き消えて又行き消えて枯野人 たかし
冬は決して暗い季節ではないようにおもいます。陽射しは弱まりますが、晴天の日も多く、雪が降ってもよく晴れれば、雪明かりの反射は眩しいほどです。実際、冬至の頃よりも、梅雨どきで雨ばかりとなる夏至の頃の方が日照時間は短いのです。寒さといっても、まだそれほどではありません。本当に寒くなるのは新暦の正月をすぎ、二十四節気の小寒、大寒の1ヶ月(寒の内)です。
旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉
枯野といえば、この芭蕉の句がよく知られていますが、本当に枯野は荒涼や寂寞ばかりではなく、何か明るい清々しさがあります。ススキや萱原をかき分けてザクザクと歩けば、えも言われぬ不思議なほどの明るさに包まれてしまいます。
冬という季節はしっかりと種が閉蔵され、新しい芽が守られている季節です。多くの木々は実をつけた後、新芽をつけてから眠りにつきます。冬の楽しみは、裸木の先に目立つようになった冬芽の観察です。あっちをみてもこっちをみてもたくさんの冬芽があり、春がくるのを万々と待っている姿に出逢えます。それは希望の観察でもあります。力強く、たくましい生命の息吹でもあります。ドングリもすでに根を張って、大地から栄養を吸い上げながら冬を越します。
かさね色の枯野色や枯色には、さまざまなバージョンがあります。表が香色、裏が青のものや、表が黄、裏が薄青のものは、冬枯れの景色の中にわずかに残る緑を表したものでしょうか。ここでは、表=黄、裏=白の枯野色を選びました。乾いた枯れ草と霜、あるいは雪をかぶった姿なども連想させますが、どこか冬の日向ぼっこのようなあたたかさを感じる配色でもあります。
初雪の跡さかりなる枇杷のはな 青蘿
この配色は花でいえば、枇杷の花のようです。枇杷の花は真冬に咲き、多くの鳥や虫たちの蜜を提供する蜜源植物です。そのつぼみは、まるで神楽鈴のような房状で、ラクダの毛布のようなあたたかい毛皮に包まれています。そして白い花を少しずつ咲かせます。何度も襲う寒波に耐えられるように少しずつ咲きますので、目立たないのですが、近づいてみると甘い香りを漂わせています。
青空に一さきの星や枇杷の花 石鼎
