

11月に入ると、にわかに冬の気配が濃くなってきます。神無月の木枯らしは「神渡し」。時雨も多くなります。冬の訪れは、五感ではっきり感じることが多いのではないでしょうか。立冬は11月8日。冬の始まりは、柚子が色づく頃、樹木が寒さに備えて自ら葉を落とし始める頃、あるいは家々の灯りが暖かく感じられる頃、かもしれません。
十月は亥の月。亥の日、亥の刻に餅を食べて無病息災を願う玄猪(げんちょ)の祝いは平安時代から伝えられ、のちに武家や民間にも広く浸透したようです。江戸時代の文献『森貞謾稿』には胡麻の黒、栗の白、小豆の赤、三色の餅を縁高に盛ると書かれています。亥の子餅は子沢山の亥にあやかって、子孫繁栄を祝う意味も含まれ、子供中心の楽しい年中行事でもあったようです。
胡麻や小豆をまぶした亥の子餅は滋養が高く、これから始まる長い冬を乗り切るための智慧であったのでしょう。うりぼうを思わせる楕円形のお餅で、見かけは地味ですが、ほっこりとした滋味深い味わいです。私は「たねや」の亥の子餅が好きです。
亥は陰陽五行で水を意味し、火を司ります。水は火を制することから、亥の月、亥の日に囲炉裏や炬燵に火を入れると火事にならないと信じられて、庶民にとっては炬燵開きの日とされていました。火は暖をとるために欠かせない有り難いものですが、昔の人は火事になることを何よりも恐れたのです。現在はエアコンのスイッチひとつで暖房ができますが、昔は火を扱うことに、畏敬の念があったことと思います。
茶の湯では冬の炉を開き、新しい茶壺の口を切る「口切り」の季節。茶事の正月ともいわれ、利休によれば「柚が色づくころ」、元伯によれば「吐く息が白くみえるころ」がよいとされ、現在は新暦11月頃に行われています。
口切りに境の庭ぞ懐かしき 芭蕉
訪れの語源は「音擦れ」です。静謐な茶室にただようなんともいえない暖かさは人の氣が作るもの。パチパチとはじける炭の音、釜の湯が煮え立つ音は松風の音を思わせる松籟、そして衣擦れの音。昔の人は衣が擦れる音をきいて、人が近づく気配を感じていたのでしょう。静けさの中にこそ華やぎがあります。小さな音ですが、心の中では大きな音です。
私は年を重ねる毎に、冬という季節を、明るく感じるようになってきました。自然界を観察していると冬は決して淋しいものではなく、大切な充電期なのだという思いが、年々強くなってきます。木々が光合成ととめて葉を落とすことも、来年の春に新芽を出すためにしっかり力を溜めていく行為です。晩秋にはものわびしく見える枯野も、本格的な冬を迎える頃には乾いてむしろ明るい色になり、清々しく青空に映えます。
人の意識も、植物や動物たちと同じように内側が充実していく季節です。しっかりと心の声に耳を澄ます。物事に集中する。じっくり何かに取り組む。研鑽する。冬という季節は決して力が萎えるのではなく、心を育み、力を溜めていくとき。小さなことの積み重ねもいつしか大きなものを生み出します。この季節にあたためていくものは、何か自分でも想像がつかないような大きな力を秘めているような気がします。冬は直観が冴え、想像力も豊かになるときです。
楓葉(ふうよう)は霜を経て一層紅くなる。ご存知のように寒暖の差がはっきりしない年は美しい紅葉がみられません。暖かい日中と夜の気温の差が激しいほどに、鮮やかになります。それは何事にも通用することで、陰陽の差、光と影、揺れ幅が大きければ大きいほど、その逆へと反転したときに大きな力を発揮します。寒さの中にこそ暖かさがあります。深く感じることを恐れずにいれば、それだけ得るものも大きなものになるのではないでしょうか。
