

月名にはさまざまな異名がありますが、なかでも好きなのが、この小草生月(おぐさおいづき)という言葉です。「小草生ふ」は、この季節の季語。小さなくさぐさが一斉に芽吹き始め、濃い土色だった大地全体が雨でぬかるみ、もやぐように緑がかってくるのが如月です。
緑なるけに色あさし小草生ふ 月待ちえたる武蔵野の原 蔵玉集
今、私は武蔵野台地に住んでいます。かつては広大な野原で、月の出がよくみえることからしばしば秋の歌に詠まれてきましたが、秋だけでなく春もまた、色浅い草の生える大地に月を待った様子がしのばれます。
現在は東京近郊の住宅地となっていますが、小草(おぐさ)は都会にいるからこそ、発見の喜びがあるようにおもいます。タイルやコンクリートの小さな隙き間、駅のホームからみえる線路の脇など、まあ、よくこんなところに、と思うような場所に名も知らぬ小さな草が、わずかな土を頼りに、懸命に芽を出しているのを見たとき、なんとも愛おしく、優しい気持ちになります。そのせいか「小草生月」を毎年、強く実感するのです。小さな生命とともに生きる喜びを感じます。
春来草自生(春来たらば草おのずから生ず)は、禅語です。
先日、私は視聴覚障害者を支援する手話ダンスのチャリティコンサートで、「いのちの理由」を、手話で踊らせていただきました。「いのちの理由」は、さだまさしさんが法然上人八百年大遠忌記念に制作された曲です。
その中にこんな歌詞があります。
仏教の教えを踏まえた深い言葉です。春はゆきつ戻りつ、まだまだ寒い日が続きます。特に如月は気がさらに来る月でもあり、寒さがぶり返して、更に着物を着る月でもありますが、時がくれば自然に草が芽吹くというこの教えは当たり前のようですが、自ずと、然るべく、用意された時を、どれだけ待てるかということでもあります。
人生にはつまづくこと、傷つくこともたくさんありますが、最善を尽くしたら、後は手放すということでもあります。人それぞれ立ち上がれる時はみんな、異なるでしょう。わずかな土しかないと嘆くより、そこは窮屈ではあるけれど、陽が当たる場所でもあり、毎日人が通って、ふと目をとめた人をそっと癒したり、励ましたりする場所なのかもしれません。「一隅を照らす」は、天台宗の言葉ですけれど、どの宗教も素晴らしいお坊さんが残してくれた生きる知恵なのだと感じます。
一生懸命生きている、その姿に励まされる如月です。身近にある小さな命に目をとめ、喜びを感じる季節。ぜひ身近にある小草を探してみてください。
