陳寿の『三国志』と裴松之の注
2~3世紀の日本について中国の国史である『三国志』のなかにやや長文の興味深い記述があります。「魏志倭人伝」と通称され、「邪馬台国」に派遣された魏の使節がもたらした実見の情報が中心を占めていますが、現地で収集した伝聞も一部含めています。『三国志』は魏・呉・蜀にかかわる史書であり、三国を統一した西晋の役人だった陳寿が執筆しました。成立は3世紀末です。しかし、『三国志』はきわめて簡潔に記載されているため、南朝宋の文帝は裴松之(はいしょうし)に注の作成を命じ、それが元嘉6年(429年)に完成しました。その注の特徴は、陳寿がとりあげなかった信憑性の低い異説や失われた書物からの引用が多いことです。とはいえ、倭人の暦に関する逸文のくだりは暦研究からは注目せざるをえません。なぜなら、「魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(魏略にいわく、その俗は正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を計算して、年紀と為す)」とあるからです。

『魏略』の二倍年暦
『魏略』とは魚豢(ぎょかん)の手になる『魏志』とほぼ同時代に書かれた歴史書です。しかし、後に散逸したため、清代にその逸文が王仁俊によって編集され、さらに民国時代にも再編集されています。その『魏略』を引いて、裴松之が注のひとつに取り入れたのが上記の逸文です。正歳とは中国暦の正月のことであり、四節とは暦の上での春夏秋冬を意味します。つまり、倭人は太陰太陽暦の体系を知らないと言っているのです。ただし、年の数え方は春耕・秋収を基準にしていると記しています。これが二倍年暦(春秋二倍暦などとも)の根拠とされる有名なくだりです。つまり中国暦の1年は倭人の数え方では春と秋の2点を年紀とするという説につながっていきます。

「魏志倭人伝」の二倍年齢
その説では、二倍年暦は二倍年齢ともかかわっています。「魏志倭人伝」には「その人、寿考(ながいき)、或は百年、或は八、九十年」とあります。『三国志』のなかで死亡時の年齢が書かれている者90名の平均年齢は52.5歳とのことですので、倭人の年齢はその倍近くになります。倭人が特別長寿だったのでなければ、中国式ではなく倭人の数え方による年齢と推測されるというのです。つまり倭人の年紀算出方法によって年齢を記しているというわけです。
二倍年暦と二倍年齢は通説ではありません。春耕秋収のくだりはふつう「ただ農耕のリズムをもって1年としている」と解釈されています( 本コラム第47回「春耕秋収を記して年紀となす」参照)。そして、記紀にみられる天皇の長寿も「誇張」として理解されています。また「魏志倭人伝」全体についても「誇張」や「誤謬」「改作」を指摘する学説が多数提出されています。しかし、古田史学とよばれる古田武彦の著書『「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎』を読んで、その緻密な考証にもとづく「魏志倭人伝」ならびに『三国志』の裴注には慎重な扱いが必要だと感じました。
『三国志』のなかの『魏志』には巻30として「烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんぴとういでん)」があり、東夷の最後に倭人についての記述があります。これが「魏志倭人伝」ですが、とくに「邪馬台国」の所在地をめぐっては九州説と近畿(大和)説に見解が分かれ、論議が交わされてきました。古田説はそれに対し、『三国志』全体のなかで「魏志倭人伝」を検討し、魏使が到達した「邪馬台国」は博多湾岸に所在したと里程(道程)にもとづき説得的に結論づけています。

邪馬壹国と俾弥呼
ちなみに古田説によると「邪馬台国」は『三国志』では「邪馬壹国」(やまいちこく)と記され、大和(やまと)とは関係のない呼称であって、「やまゐ」と発音したと推定されています。「卑弥呼」も『三国志』の帝紀には「俾(使者)」を意味する「俾弥呼」と女王自身が手紙に署名をしていて、「ひみか」と読むのが正しいとされています。東夷伝で「卑弥呼」となったのは東方の蛮族にふさわしい「略字」の「卑」が使われたものと解釈されています。

【参考文献】
古田武彦『「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎』ミネルヴァ書房、2010年(初出は朝日文庫、1992年)。

中牧弘允
文化人類学者・日本カレンダー暦文化振興協会理事長
長野県出身、大阪府在住。北信濃の雪国育ちですが、熱帯アマゾンも経験し、いまは寒からず、暑からずの季節が好きと言えば好きです。宗教人類学、経営人類学、ブラジル研究、カレンダー研究などに従事し、現在は吹田市立博物館の特別館長をしています。著書『カレンダーから世界を見る』(白水社)、『世界をよみとく「暦」の不思議』(イースト・プレス)など多数。