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第47回 春耕秋収を記して年紀となす-古のホライズン・カレンダー

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 『魏志倭人伝』(3C末)には卑弥呼の邪馬台国に関する記述があり、さまざまな論争をよんできました。そこには暦についても言及があり、たいへん参考になります。倭人伝の本文ではなく注のほうですが、「其俗正歳四時を知らず、但春耕し秋収むるを記して年紀と為す」と書かれています。正歳(せいさい)とは立春前後に定められるようになった正月のことで、四時(しじ)とは立春から春、立夏から夏、立秋から秋、立冬から冬と決めた季節のことです。倭人は正歳四時を知らないと中国の知識人からはやや侮蔑的に見下されていました。

 しかし、「春耕秋収を記して年紀となす」とも述べられており、一種の農業暦をもっていたことがわかります。では、それはどのものであったのでしょうか。いわゆる自然暦のひとつかとおもわれますが、それは何月何日という数え方もしなければ、365日で完結するものでもありませんでした。それでは、春耕秋収の時期はどのように知ったのでしょうか。桜の開花や雪形(第32回参照)なども指標になったかもしれませんが、基本的には太陽の動きに着目していたようにおもれます。その理由をいくつかあげてみましょう。

 まず第一に、アマテラス(天照大御神)が太陽神であることです。弟のツクヨミは月神となりましたが、古事記や日本書紀にはほとんど登場していません。いっぽうアマテラスには、弟スサノオの暴状に怒り、天の岩屋に隠れたところ、世界は真っ暗になり、人びとは困りはてた結果、策略をもってアマテラスに戸を開けさせたという周知の天の岩屋戸神話があります。そのアマテラスの子孫が神武天皇であり、東征して大和朝廷を樹立し、橿原の宮で即位したと記紀は伝えています。アマテラスは伊勢神宮内宮の祭神であり、日の御子である天皇が祭祀の中心を担っていることは言うまでもありません。

 第二に、その天皇が太陽をまつる祭祀を毎日、早朝におこなっていたことがあげられます。『随書東夷伝倭国』には推古天皇の頃、日本からの使者は隋の文帝の質問にたいし「王は天をもって兄とし、太陽をもって弟としています。天がまだ明けないときに王は政庁に座して政につき、太陽がでれば仕事を止めてあとは弟にまかせる、といって退きます」と答えたとあります。日本からの使者とは遣隋使の小野妹子、王の弟とは推古天皇の甥で摂政の聖徳太子のことでしょうか。いずれにしろ、天皇の重要な任務のひとつは日の出を拝することでした。実際、天皇の座所である清涼殿は東面していました。敏達天皇の宮殿跡は冬至に太陽が三輪山からのぼる位置に建てられています。また、敏達天皇はその統治の7年(577年)に日祀部(ひまつりべ)を設置しています。日祀部とは太陽を観測し、日神を奉祀する部局です。日祀部は日置部とともに宮廷のみならず、地方にも各地におかれ、天皇と任務を分かち合っていました。

 第三に、どのように太陽を観測していたかについてです。天皇と日祀部は山の稜線にのぼる太陽を観測していたとかんがえられます。三輪山の麓にある檜原(ひばら)神社には図のような三つ鳥居あり、注連縄(しめなわ)に吊り下げられる紙垂(しで)が太陽の昇る位置をはかる重要な指標となっていました(小川光三『大和の原像―古代祭祀と崇神王朝』大和書房、1973)。この方法が実際におこなわれていたとすると、まさにホライズン・カレンダー(第46回)にほかなりません。一般にホライズン・カレンダーは農耕や儀礼の開始を決めるためにつかわれ、年紀を数えるためではありません。ただし、魏志倭人伝では「年紀と為す」とありますから、年の積み重なりや循環も数えていたのでしょうか。

 ともあれ、古(いにしえ)の日本にもホライズン・カレンダーが存在していたことはまちがいないようです。そのさらなる傍証として縄文時代の環状列石や列柱のこともとりあげなくてはなりません。しかし、それは次回にまわしたいとおもいます。

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中牧弘允

文化人類学者・日本カレンダー暦文化振興協会理事長
長野県出身、大阪府在住。北信濃の雪国育ちですが、熱帯アマゾンも経験し、いまは寒からず、暑からずの季節が好きと言えば好きです。宗教人類学、経営人類学、ブラジル研究、カレンダー研究などに従事し、現在は吹田市立博物館の特別館長をしています。著書『カレンダーから世界を見る』(白水社)、『世界をよみとく「暦」の不思議』(イースト・プレス)など多数。

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