『ホツマツタヱ』
二倍年暦については本コラム第241回で紹介しましたが、最近、上代の天皇の統治期間を春秋二倍暦で計算する研究に遭遇しました。古田史学とは別の流れに属し、高分子化学を専門とする故梶慶輔氏(京都大学名誉教授)の論考です。依拠するのは『ホツマツタヱ』という「神代文字」で書かれた「古史古伝」であり、一般には偽書とみなされ、真偽のほどが定まらない文献です。『ホツマツタヱ』とは「ホツマ」と「伝え」に分かれ、ふつうホツマとは『日本書紀』の神武紀に出てくる「秀真国(ほつまくに)」と解し、真の国=日本を指しています。「穂摘(ほつま)」と書いて、稲穂を摘む意だとも言われています。しかし、梶説では神武紀の「磯輪上(しわかみ)の秀真国」は古代サンスクリット語に由来するとし、「シヴァ神に仕えるホートリ神官によって与えられた国」とされています。いきなりインド起源説に飛ぶのは、弥生人の源郷はガンジス川などに定住していたビルマ系の民族であり、日本語はビルマ語とサンスクリットの融合した一種のクレオール語であるという前提に立っているからです。
『ホツマツタヱ』は「オシテ(ヲシテ)文字」をつかう韻文の五七調で詠まれた上代日本に関する歴史書です。「オシテ」はアイウエオの母音とkhnmtrsywの子音(父音)の組み合わせからなる48音から成り、wの子音にはイ段とエ段がなく、ウ段はンとなっています。記紀はすべて漢字ですが、『ホツマツタヱ』は48音さえ憶えればすぐに読むことができます。サンスクリットと対応させる梶説では「オシテ」は「唇で生じる音」、「ヲシテ」は「神々や先祖に対する供犠を火でおこなうときの祭文」とされています。5つの母音は五輪塔や卒塔婆、あるいはインドの「五大」(地・水・火・風・空)に比定されることもあります。
『ホツマツタヱ』も「オシテ」文字も弥生遺跡からは出土していません。最古の写本は江戸時代中期(1775年)の和仁估安聡(わにこやすとし)本であり、滋賀県高島町で発見されました。明治時代の写本も愛媛県宇和島で見つかっています。これらの発見は『現代用語の基礎知識』の元編集長だった松本善之助の尽力によるもので、かれは研究にも情熱を注ぎました。
スズ暦とアスズ暦
暦研究で注目されるのは『ホツマツタヱ』のスズ暦とアスズ(アスス)暦です。天地開闢から天神七代、イサナギ・イサナミの国生み、天照大神の誕生、その弟ソサノオの追放、反乱軍ハタレの討伐、国譲り、三種の神器などの綾(あや。章に相当)が続き、和歌の誕生、世継ぎを願う祝詞、食物の規制、乗馬法などをはさみ、神武天皇の東征と橿原宮での即位に移っていきます。10代崇神天皇からは記述が詳しくなり、ノミノスクネが埴輪(注1)を作り、古墳を造営するくだりも出てきます。そして12代景行天皇のよる熊襲の平定、ヤマトタケによる熊襲と蝦夷の平定、最後はヤマトタケの死で幕を閉じます。
神武天皇より前がスズ暦、神武天皇から景行天皇までがアスズ暦で書かれています。スは美称辞の「素」とヅ(木・枝)の意。スズ暦は春秋二倍暦で6年(通常年では3年)を1単位とし、15日×12月×6年+15日(5日×3年の閏月)=1095日=365日×3年(通常年)と計算しています(注2)。アスズ暦は天皇の御代に対応する暦であり、春秋二倍暦を踏襲し、サンスクリットで「スズ暦に次ぐ暦」の意です。また梶説によるとアスズ暦は『日本書紀』の年号「太歳(たいさい)」に対応するとのこと。その理由は、アスズ元年が太歳干支の甲子にあたるからです(B.C.261年春。注3)。実際、神武天皇の即位年は『日本書紀』の太歳干支の辛酉です。辛酉は干支の順番は58番目であり、アスズ暦の58年に一致しています。西暦ではB.C.233年となります(皇紀ではB.C.660年)。
梶は『ホツマツタヱ』が景行天皇に奉納されたのはA.D.159年春であり、13代成務天皇の時代までアスズ暦が使われたとみています。しかしA.D.192年の14代仲哀天皇即位からは年干支、つまり中国の干支紀年法に合わせるようになったと推測しています。頃は魏との交流がさかんになりはじめた時期、仲哀天皇崩御後は妃の神功皇后が活躍する時代となっていきました。

中牧弘允
文化人類学者・日本カレンダー暦文化振興協会理事長
長野県出身、大阪府在住。北信濃の雪国育ちですが、熱帯アマゾンも経験し、いまは寒からず、暑からずの季節が好きと言えば好きです。宗教人類学、経営人類学、ブラジル研究、カレンダー研究などに従事し、現在は吹田市立博物館の特別館長をしています。著書『カレンダーから世界を見る』(白水社)、『世界をよみとく「暦」の不思議』(イースト・プレス)など多数。