宣長没後の門人
平田篤胤(ひらたあつたね)(1776-1843)は出羽国久保田藩(現、秋田市)の出身で、本居宣長(もとおりのりなが)の「没後の門人」を自称した国学者です。20歳の時、脱藩・出奔し、江戸に出て、苦学の道を歩んでいたところ、備中松山藩士で兵学者だった平田篤穏(あつやす)の目にとまり、その養子になりました。宣長の著作との出会いは妻がもとめた本にあり、没後2年たっていました。それにもかかわらず、夢のなかで宣長に入門を許されたと主張したのです。実際にはその2年後、宣長の長男である本居春庭(はるにわ)に入門を許され、本居派の国学を学んでいきました。

篤胤は宣長の国学思想を継承するのみならず、『霊能真柱(たまのみはしら)』や『古史伝』をはじめ多数の著作を刊行しています。その思想の系譜は後世、「復古神道」とよばれるようになりました。また医業のかたわら「気吹舎(いぶきのや)」とよばれる私塾を開き、門人は500人にも達しました。「篤胤没後の門人」も1300人以上にのぼったそうです。
篤胤の「復古神道」は宣長と同様に儒教や仏教を排し、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を天・地・泉(よみ、黄泉)の創造主とみなし、天照大神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に命じて治めさせた「顕世(うつしよ)」と大国主命が治める「幽世(かくりよ)」を対比しましたが、さらに踏み込んで死後の魂は幽冥界におもむくと考えていました。そして、顕世(顕明事)からは幽世(幽明事)は見えないが、逆に幽世からは顕世が見えるものとみなしていました。
晩年の篤胤は師の『真暦考』(本コラム第244回参照※)を発展させる形で暦学研究にもいそしみ『三暦由来記』や『古史徴』を著わし、前者では夏・殷・周の暦を、後者では春夏秋冬や神代文字をとりあげました。なかでも六巻にわたる『天朝無窮暦(てんちょうむきゅうれき)』(1841)はその集大成ともいうべき著作です。今回はその巻一の冒頭部分を紹介し、篤胤が意図したところを汲んでみたいと思います。

天朝無窮暦とは
天朝とは天皇の統べる大御国のことであり、和訓では「あまつみかど」と読みます。無窮とは無限を意味し、きわまりのないことを指す形容です。
天朝無窮暦とは・・・我が天皇命(すめらみこと)の皇祖(みおや) 伊邪那岐大神の 天地(あめつち)万(よろづ)の道を創(はじ)め給ひし當(その)昔(かみ)より・・・世に授けおき給へる真暦(まごよみ)を 後に大國主神 殊に宜しく調(もの)し給ひて 大御國(おほみくに)に遺(のこ)し給ひ 然(さ)て赤縣州(もろこし)の戒(から)を始め 諸(もろもろ)蕃(えみし)の國々へも 布及(しきおよ)ぼし賜へりし本暦(もとつこよみ)の 固(もと)より有(あり)来れる随(まま)に 筑紫の日向の 高千穂宮に御坐して 天ノ下しろし看(め)せる 天津日高彦(あまつひたかひこ)火瓊々杵尊(ほのにゝぎのみこと)の大御代より 其ノ天朝(あまつみかど)に用ひ給ひて 日本書紀(やまとみふみ)の紀年(としなみ) 日次(ひなみ)月次(つきなみ)に載(しる)させ給へる暦を謂ふ。
要約すると、皇祖が天地を創った当初から授けたところの真暦は中国にも普及した本暦であり、天孫降臨以降も天朝で用いられ、日本書紀の紀年・日次・月次にも使われた暦であると述べています。
続けて、その暦法は中世までは日本のものとも中国のものとも区別されなかったが、貞享年間に渋川春海が日本長暦をだし、やや遅れて宝永年間に中根璋(元珪)も皇和通暦を書いたが、信じるわけにはいかない。なぜなら、本居宣長は真暦考を著わし、神武天皇の元年が辛酉であることを疑っていたからである。自分(篤胤)は宣長の説を心底から信じているので、中国の諸暦を知っている渋川などが、書紀の暦日を日本の古暦であるとするのは受け入れがたい。師説では神功皇后以前は紀年・日次はなく、書紀などの暦日は推論にすぎない。天皇たちの年齢も確かではない。異国学びに心をひかれ、上代(かみつよ)をないがしろにする言説は師説をけがすものになりかねない、と綴っています。

篤胤によれば、真暦は日本の上代にはじまり中国などに伝播したもので、渋川春海の貞享暦も信じるに値しない「外国かぶれ」の説であると糾弾しているのです。(続く)

中牧弘允
文化人類学者・日本カレンダー暦文化振興協会理事長
長野県出身、大阪府在住。北信濃の雪国育ちですが、熱帯アマゾンも経験し、いまは寒からず、暑からずの季節が好きと言えば好きです。宗教人類学、経営人類学、ブラジル研究、カレンダー研究などに従事し、現在は吹田市立博物館の特別館長をしています。著書『カレンダーから世界を見る』(白水社)、『世界をよみとく「暦」の不思議』(イースト・プレス)など多数。