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第40回 浮世絵のルーツは大小暦-実用から趣味へ

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 浮世絵は世界に冠たる日本の木版画です。19世紀末のヨーロッパにジャポニズムという日本趣味の大流行をもたらしたのが浮世絵です。フランスやオランダの印象派にも多大な影響をあたえたことはよく知られています。しかし、多色摺りの浮世絵が全面開花する直前、吾妻錦絵(あづまにしきえ)とよばれる錦のように美しい暦が流布していたことは専門家以外、ほとんど知られていません。

 平凡社の『大百科事典』をひも解いてみると、「錦絵」の項目に「1765年(明和2)俳諧を趣味とする江戸の趣味人の間で絵暦の競作が流行、これに参加した浮世絵師鈴木春信(1725-70)が彫師、摺師と協力して技術を開発、<吾妻錦絵>と名づけて商品化した」とあります。つづけて「多くの色を正確に摺り分け、錦のように華やかで美しいいろどりが加えられた」とみえます。絵暦が錦絵の誕生に一役買っているのです。

 絵暦とは、江戸時代に流行した絵入りの暦のことをさします。おなじ『大百科事典』の「絵暦」の項には絵暦の代表である大小暦について「大小暦は月の大小を種々の絵で奇抜に表現した暦で、貞享・元禄(1684-1704)の頃から作られ、1765年(明和2)以降急激に流行した」と説明されています。錦絵について直接の言及はありませんが、「文人や浮世絵師などが意匠をこらした大小暦を木版刷りにして年始の回礼に贈答する風も行われ、実用からしだいに趣味娯楽のための暦になった」と指摘しています。良い意味で趣味と実益を兼ねた暦であったということです。

 ことほど左様に、絵暦には遊び心があふれていました。毎年変わる大の月と小の月を示すのに、判じ絵のような趣向を独創的に考案しました。漢数字の正、二、三以下、十二までを絵のなかに盛り込んだのです。たとえば、相撲取りの大小にそれをなぞらえたりしました。大型力士は大の月、小兵力士は小の月といった具合です。

 葛飾北斎も「初日の出」という大小暦をのこしています。画面の下半分に初日の出を描き、太い帆柱と細い帆柱にそれぞれ月の大小を振り分けています。この図案は最初の暦文協オリジナルカレンダー(2012年版)の1月分に使われました。

 さて、鈴木春信が錦絵を考案し、暦を交換する年始の習俗にあわせて流行をつくりだしたところに注目してみましょう。明和2年が大流行の画期的な年でした。江戸市中に「大小の会」が各所で開催され、大小暦の公表と交換の場となったと伝えられています。その熱気を受けて錦絵が誕生したのです。しかも、それがきっかけで役者絵や相撲絵、美人画や春画、風景画や花鳥画へとジャンルがどんどん広がっていきました。浮世絵作家も喜多川歌麿、東洲斎写楽、国貞、国芳、葛飾北斎、歌川広重などを輩出していきました。しかし、明治の世になると、浮世絵は終焉を迎え、大小暦も改暦によって姿を消しました。

 中国の多色刷り月份牌が租界で隆盛をきわめ、カレンダーからポスターに変身を遂げたように、多色摺りの浮世絵は江戸市中で大流行し、大小暦の図案から美人画や役者絵などの木版画へと変貌しました。そこには時代も地域も異なるにもかかわらず、似たような軌跡がうかがえます。共産主義革命と明治維新が消費社会や大衆路線に待ったをかけたのです。毛沢東時代に月份牌の絵師と擦筆法が共産主義思想のプロパガンダの媒体となったように、浮世絵師は舶来技術の着色ガラス写真の絵付師などとなって糊口をしのぐようになりました。

 しかし、浮世絵は欧米に伝播し、クールジャパンの先駆けとなったのです。錦絵は死して印象派を残した、とも言えるでしょう。

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中牧弘允

文化人類学者・日本カレンダー暦文化振興協会理事長
長野県出身、大阪府在住。北信濃の雪国育ちですが、熱帯アマゾンも経験し、いまは寒からず、暑からずの季節が好きと言えば好きです。宗教人類学、経営人類学、ブラジル研究、カレンダー研究などに従事し、現在は吹田市立博物館の特別館長をしています。著書『カレンダーから世界を見る』(白水社)、『世界をよみとく「暦」の不思議』(イースト・プレス)など多数。

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