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第45回 インカの暦-紀年法とは無縁の「サミット・カレンダー」

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 ピサロに征服されたインカ帝国の首都クスコではどのような暦が使われていたのでしょうか。インカ暦には南半球の夏至にあわせて12月に年首がはじまるという説があり、すこし調べてみました。

 インカ文明は文字をもたなかったため、インカ暦についても征服者やその後に到着したスペイン人の記録、それにスペイン語をおぼえたインディオの記述がたよりとなります。それらの文献に共通する認識としては次の3点があげられています。

 ①ケチュア語でワタとよばれる1年は太陽暦にもとづいていて、
  12カ月に区分されていた。
 ②ケチュア語で惑星の月をあらわすキリャが1ヵ月の単位としても使われていた。
 ③各月のはじまりは、クスコから展望できる山頂に立てた標柱(スカンカ)4本の
  あいだに出る太陽を観察し、時期の到来を確定していた。

 しかし、年首の時期や暦月の名称については異同があり、ひと月の長さについてもまちまちで、さまざまな問題をはらんでいます。年首については12月とするものもあれば、南半球の冬至に対応する5-6月とするもの、あるいはカトリックの影響からか1月とするものがあります。そして太陽暦と太陰暦をどう調整していたか、つまり置閏法(ちじゅんほう)については、まったく記録がありません。

 とはいえ、かなり詳細な暦の記録を残したクリストバル・デ・モリーナの記述(1573)によれば、ヨーロッパの暦(ユリウス暦)の12月にあたるアシカイ・リュスケ=インティライミの月には造物主、太陽、雷に供物がささげられ、インカ王は領主たちを引き連れて聖地マントゥカリャへ赴き、そこで祭宴を催し、月の末日にクスコへ帰ったといいます。翌月(1月)のカウアイは畑に水をひくことに専念する、という具合に以下、月ごとに説明がついています。興味ぶかいことに、祭儀をおこなわず、耕作だけがおこなわれたとする月が9番目から11番目まで3カ月あり、その前後に農事の開始月と収穫月がおかれています。

 要するに、あまり儀礼をおこなわず農耕に専念した5カ月に1月(カウアイ)をくわえると、6カ月(半年)になります。そして残りの半年に祭事がおこなわれることで1年が構成されていたようです。

 モリーナの記録した12月のインティライミは文字どおりインティ(太陽神)のライミ(祭り)で、夏至の時期にあたります。太陽王であるインカ国王が聖地に赴き、クスコへの帰還が月の締めくくりになるというのは意味深長です。北半球の冬至とは正反対の意義を秘めていたことでしょう。

 ところで、インカの人びとは年齢を数えることも、歴史上の出来事を編年であらわすこともなかったと記されています。インカの暦は長さを数えるような暦ではなく、タイミングを決める暦であった可能性が高いようです。クスコからのぞむ山頂の標柱がそれを示唆しています。つまり、アメリカの平原に暮らすホピの人びとが地平線に出没する太陽の動きからホライズン(地平線)・カレンダーをもっていたように、高地に住むインカの人びとは山頂を眺めて日の出・日の入りを観察し、月の満ち欠けと調整しながら、日々を送っていたとかんがえられているからです。それにはサミット(山頂)・カレンダーというような名称はつけられていませんが、体系的に「時が刻まれた」暦ではなく、農作業や祭事の「タイミングをはかる」暦であったのでしょう。とりわけ12月の夏至は太陽王にふさわしい時候であったにちがいありません。

【 参考文献 】
松本亮三・横山玲子「新大陸文明の時間観念―マヤとインカの暦」
『東海大学紀要文学部』第61輯、1994。

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中牧弘允

文化人類学者・日本カレンダー暦文化振興協会理事長
長野県出身、大阪府在住。北信濃の雪国育ちですが、熱帯アマゾンも経験し、いまは寒からず、暑からずの季節が好きと言えば好きです。宗教人類学、経営人類学、ブラジル研究、カレンダー研究などに従事し、現在は吹田市立博物館の特別館長をしています。著書『カレンダーから世界を見る』(白水社)、『世界をよみとく「暦」の不思議』(イースト・プレス)など多数。

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