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第71回 オランダ正月

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江戸時代、グレゴリオ暦で祝ったお正月

 オランダ正月とは江戸時代、キリシタン禁制にもかかわらず、グレゴリオ暦(太陽暦)で祝った正月のことをさします。長崎の出島でオランダ商館の人たちが日本人を招いてオランダ風の料理をふるまったのを「阿蘭陀正月」とよんでいました。オランダ人にとっては、今でもそうですが、正月よりもクリスマスを盛大に祝うことが大切でした。かれらはそのクリスマスを「阿蘭陀冬至」と称して自分たちだけで祝い、日本人に対しては太陽暦の元日をとっておいたのでした。

 そのうち日本人のオランダ語通詞(通訳)たちが自宅でオランダ正月に西洋料理をふるまうようになりました。『紅毛雑話』(森島中良、1787年)によると「ラーグー」(鶏の挽肉とシイタケ、ネギの煮込み)、「ロストルヒス」(鯛の塩焼き)、「フラートハルコ」(豚の腿肉の丸焼き)、「ケレヒトソップ」(伊勢海老のスープ)、「タルタ」(野菜のパイ)、「プラート ルエントホーゲル」(鴨を丸ごと煮たもの)、「ハルトペースト」(鹿の腿肉の丸焼き)、「ヲぺリィ」(クッキー)などが供され、これは津山洋学資料館のHPで見ることができます。

 とくに通詞の吉雄耕牛(よしお・こうぎゅう)の自宅はオランダの家具や動植物にあふれ、そこでのオランダ正月は遊学中の蘭学者たちにとっては垂涎(すいぜん)の的となっていました。江戸の蘭学者大槻盤水(玄沢)もそのひとりで、江戸に戻ると、自宅の芝蘭堂を開放しオランダ正月を開催したのです。

オランダ正月の様子を描いた「芝蘭堂新元会図」

 時は寛政6年閏11月11日、すなわちグレゴリオ暦1795年1月1日のことでした。これが江戸のオランダ正月の最初ですが、この時の様子が津藩の市川岳山によって描かれました。「芝蘭堂新元会図」(重要文化財、早稲田大学図書館蔵)がそれです。新元会というのは新しい元日の会という意味ですが、1873年に改称されたもので、もともとは「西洋元日」あるいはオランダ正月とよばれていました。

 「芝蘭堂新元会図」には3つの四角いテーブルが長方形に並べられ、そのまわりに28名の人物が座し、1人が椅子に座っています。テーブルの上には料理やボトルが並び、ナイフやフォークが置かれています。人びとはグラスやパイプを手に持ち、あるいは指を指し、あるいは酌をしながら、おだやかに語らっています。床の間には一角獣とおぼしき絵の掛軸がかかっています。西洋人の肖像画も掲げられていますが、医聖ヒポクラテスかどうかは定かではありません。棚には革表紙の洋書や鵞管(羽ペン)のようなものが置かれています。

「芝蘭堂新元会図」に描かれた蘭学者たち

 参集の面々は「蘭癖(らんぺき)」(オランダかぶれ)ともよばれた蘭学者たちです。大槻盤水を中心に、その師・前野良沢、初の蘭日辞書を刊行した稲村三伯、銅版画の司馬江漢、杉田玄白の養子・杉田伯元、津山藩医の宇田川玄随、桂川甫周とその弟・森島中良などで、絵を描いた市川岳山も含まれています。異色なのはキリル文字のロシア語の書付を持つ大黒屋光太夫です。かれはロシアからの帰国後3年目にこの宴に招かれたことになります。ちなみに、桂川甫周による大黒屋光太夫の聞き書きが『北槎聞略』です。

 芝蘭堂のオランダ正月は盤水の子・盤里が没する1837年まで44回開かれました。切支丹宗門が御法度の時代、オランダ冬至とオランダ正月は大目に見られていたことが興味をひきます。オランダ冬至は出島内のことでしたが、オランダ正月は出島を出て、江戸にまで飛び火し、蘭学の興隆に花を添えました。

 オランダ正月をタイトルにした『おらんだ正月』(森銑三著)は江戸時代の蘭学者を含む科学者を50人あまり少年少女向けに記述した本です。そこには暦学の先達である麻田剛立、高橋至時、間重富についても紹介されています(本コラム第60回、第62回参照)。

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中牧弘允

文化人類学者・日本カレンダー暦文化振興協会理事長
長野県出身、大阪府在住。北信濃の雪国育ちですが、熱帯アマゾンも経験し、いまは寒からず、暑からずの季節が好きと言えば好きです。宗教人類学、経営人類学、ブラジル研究、カレンダー研究などに従事し、現在は吹田市立博物館の特別館長をしています。著書『カレンダーから世界を見る』(白水社)、『世界をよみとく「暦」の不思議』(イースト・プレス)など多数。

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