実りと嵐のはざまに
立春から数えて二百十日目にあたるのが「二百十日(にひゃくとおか)」。毎年9月1日頃で、稲穂が黄色く色づき、いよいよ実りの季節を迎えます。
日本はこの頃から台風シーズンに入り、収穫直前の稲が被害を受けやすいため、古くから農家にとっては厄日とされてきました。二百十日と、その後の二百二十日は、ともに日本独自の雑節です。
野分と行き合いの空
「野分、例の年よりもおどろおどろしく、空の色変りて吹き出づ」
―『源氏物語』第二十八帖 野分
昔の人は台風のことを「野分(のわき)」と呼びました。初秋の嵐は草木をなぎ倒すほど激しく吹き荒れますが、無事に過ぎれば、すべてを吹き払ったような澄みきった朝が訪れます。安堵と共に眺める「野分晴れ」です。
この頃には、夏の雲と秋の雲が交じり合う空がよく見られます。これを「行き合いの空」といい、夏の熱気と秋の涼しさが入り混じる季節の境目は、現世と常世を隔てる境がゆるみ、異界との扉が開く特別な時とされてきました。
一日に例えると黄昏どきにあたり、精霊や異界との交流が活発になると考えられてきました。二百十日の頃は、まさにその季節のはざまを肌で感じる時期です。夏と秋が交わる境目は、古くから精霊や祖霊を迎え、感謝を捧げる祈りのときでもありました。
荒ぶる風を鎮め、祖霊を慰める「風の盆」
各地にはこの荒ぶる風を鎮め、五穀豊穣を祈る祭りが今も残っています。富山県八尾の「おわら風の盆」、奈良県の「竜田祭り」、新潟県弥彦神社の風鎮祭、兵庫県伊和神社の風鎮祭などがその代表です。
なかでも私が二十数年通い続けているのが「おわら風の盆」。毎年、二百十日と重なる9月1日から3日に行われるこの祭りは、豊作祈願とともに祖霊を迎え、感謝を捧げる行事として続いてきました。
哀愁を帯びた胡弓の音を主旋律に、静かに進む踊りの列──ぼんぼりだけが灯る町は幻想的で、夏と秋のはざまに広がる異界の入り口のようです。虫の音がすっぽりと町を包み、祖霊を慰める祈りと、収穫の無事を願う心が静かに重なってゆきます。
三日のうち必ずどこかで雨が降りますが、これもまた「風の盆」の風情。晴れ間を待って真夜中の町を歩けば、各町の踊り手たちが、ひたひたと流れていきます。
長く通ううちには名人と呼ばれた方々も亡くなられ、弔いの気持ちで踊る年もありました。毎年、名も知らぬまま会釈を交わす人たちもいて、無事に再会できることがいっそうありがたく、命の不思議を思います。
虫の声や胡弓の調べに導かれ、現世と常世の境に立つような夜──月を仰ぎながら踊っていると、世代を越えて連なるいのちへ、自然と手を合わせるような祈りが胸の奥から湧き上がってきます。
八朔と農家の三大厄日
また、旧暦八月一日は「八朔(はっさく)」と呼ばれ、「田の実の節供」として、早稲の初穂を神やお世話になった人々に捧げ、豊作を祈願する日でした。「田の実」は「頼み」に通じ、台風の被害を免れるよう願う予祝の意味もあり、「八朔」そのものがこの日に吹く強風を指すこともあります。
旧暦の八月一日は毎年変わりますが、大体9月初旬になることが多く、この八朔、二百十日、二百二十日は農家の三大厄日ともいわれてきました。
二百二十日(にひゃくはつか)は毎年、9月10日頃です。これ以降も台風は次々やってきますが、荒天を告げるこれらの雑節には、先人たちの祖霊への感謝や、豊作への祈りを受け継がれています。風は試練であり、祝福でもあります。二百二十日を過ぎれば、稲穂はたわわに実り、秋は確実に深まっていきます。
近年は気候変動の影響で、集中豪雨よる被害が出やすくなってきています。ニュースを見て、遠方に住む方々のご無事を祈る日々が続きます。
文責・高月美樹

