十五夜・芋名月
中秋の名月は葉月の十五夜、別名は芋名月です。秋の収穫物、里芋やお団子をお供えし、月を眺めます。虫の音に包まれ、感謝と共に眺める秋の月は格別なもの。
白いお団子は月の依代(かたしろ)です。日本人は同じ形のものに同じ霊魂が宿ると信じてきました。お団子を食べることは、月の霊力を身にとり入れる儀式でもあります。
明月・望月・素月
明月は煌々と明るい秋の月。さやけし(清けし、明けし)という言葉は、澄み渡って、くっきりとしていること。はっきりしていて、明らかであることをいいます。素月も明るく冴え渡った月をさします。
昔は満月ではなく、望月(もちづき)という呼び名が一般的でした。そのため望の月ともいいます。望月という言い方は葉月に限らず、満月の表現として使われてきました。
月の朔望(さくぼう)といえば、月の満ち欠けのこと。小望月はもう少しで満月になる日の夜、十四夜の月をいいます。
中秋の名月・中秋節
和暦では初秋の文月、仲秋の葉月、晩秋の長月の三ヶ月が秋です。ですので、仲秋という言葉は葉月全体をさします。さらにその真ん中となる葉月の満月をさすのが「中秋」という言葉です。中秋節という言い方もあります。名月と同じ意味で、名高き月といいう言い方もあります。
三五夜・三五の月
三五夜(さんごや)は三×五で十五夜のこと。三五の月。中国から伝わって、日本でも万葉集の時代からしばしば使われてきた表現です。日本では「三五月」と書いて、もちづきと読んだりします。
三五夜中 新月の色
二千里外 故人の心 白居易
遠くに左遷されて会うことができなくなった親友を想って詠んだ、白居易の詩です。この場合の新月とは出てきたばかりのピカピカの月。二千里も離れた場所で、同じ月を見ている彼は今、どんな思いであろうか。同じ月を見ているだろうか。『和漢朗詠集』にも収録され、千年以上、日本で愛唱されてきた有名な漢詩の一節です。
日本人は美しいものをみたとき、この月を誰かに見せたいと願ったり、共に眺めたいと感じたりします。月を見て人を想う。寄物陳思(きぶつちんし)とは物に託して思いを表現することで、特に月を愛でる風習が強い日本人の心に深く浸透してきました。
今日の月
今日の月も、中秋の名月を表わす季語のひとつです。待ちに待った今日という日の満月。今宵の月。
玉兎
玉兎(ぎょくと)は月の象徴として使われる言葉で、満月を意味することもあります。中国の仏教や道教の伝説で、月には甘い香り漂わせる桂の木があり、その木の下で兎(うさぎ)が不老不死の霊薬を搗いているとされていましたが、日本では餅を搗く姿となって、今日にあります。望月(もちづき)が餅搗きになったとする説もあります。
金烏はカラスで太陽の象徴、玉兎はウサギで月の象徴です。『金烏玉兎集』といえば、気の循環、月日の運行を占う天文の秘伝書。吉備真備が日本に持ち帰り、阿倍仲麻呂の子孫に伝えたとされています。
阿倍仲麻呂には渡唐前に日本に置いてきた満月丸という子供がいました。安倍晴明は満月丸の子孫で、この秘伝書を受け取ったとされています。当時は陰陽師のものでしたが、江戸時代には暦の吉凶、方位、占星術の聖典として流布し、暦に大きな影響を与えたといわれています。
真如の月
闇の中で煌々と輝く明月はしばしば物事の本質や真理、悟りの姿を意味し、真如(しんにょ)の月といいます。煩悩の迷いが晴れて、あかあかと輝く月。
あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかあかあかやあかあかや月 明恵
鎌倉初期の名僧、明恵(みょうえ)の歌です。物事の本質や真実を照らし、迷妄を破る「真如の月」を詠んだ歌とされています。
指月(しづき)は仏教用語で、本質(月)を伝えようとする指は方法や教えであって、月そのものではないという意味です。あれが月ですよとどんなに指をさしても、指の先ばかり見ていると、月そのものが見えなくなるという意味でも使われます。
月白
十五夜が上がる直前の空が白く明らんでみえる様子。色名としては「げっぱく」と読み、ごく薄い青みを含んだ白色をさします。
芭蕉が正座し膝に手を置いて月の出を待っている様子が目に浮かびますね。
月に木賊
木賊(とくさ)は別名、研ぎ草といい、古代から金属や木工品をツルツルに磨き上げる天然の研磨剤として使われてきました。「月に木賊」は昔から描かれてきた題材で、月を鏡のようにピカピカに磨き上げることをあわらし、煌々と明るい中秋の月を象徴しています。
「木賊に兎」も多くの絵師が描いてきた題材で、月を描かずに煌々と明るい月を伝えることができる意匠です。伝統色の木賊色は青みがかった美しい緑色で、かつては常盤色(ときわいろ)よりも人気があったそうです。木賊刈りも秋の季語です。
無月・雨月
中秋の名月は見えない年もありますが、そんなときは無月といいます。雨が降れば、雨月。いずれにしても名前がつきます。
文責・高月美樹