七十二候では「紅花栄」(べにばなさかう)を迎えました。前回の「蚕起食桑」(かいこおきてくわをはむ)と同じく、こちらもかつて栄え、大きな富をもたらした産業にかかわる一候です。七十二候では5月末に登場しますが、実際の開花はもう少し先になります。
江戸時代、紅花を発酵させて丸い餅状に固めた紅餅は金よりも価値があるといわれるほど高値で取り引きされ、莫大な富をもたらしました。紅花の取引で栄えた豪商が江戸で派手に遊んだことから、紅花大尽(べにばなだいじん)と呼んだりしました。
紅花は布を真紅に染められる貴重な天然染料でもあり、歌舞伎俳優や遊女たちが用いる希少な化粧品でもありました。歌舞伎の隈取りや衣装には白、赤、黒が印象的に使われていて、その美しさにいつもハッとさせられますが、この3色は「日本の美」を代表する究極の組み合わせ。
漆の赤や黒もその強いコントラストで料理や素材の色を見事に引き立て、日本の暮らしに今でも使われていますし、伝統的な花嫁衣装である白無垢に黒髪の文金高島田、真紅の口紅もこの3色がなんとも印象的です。
紅花は口紅として使われるだけでなく、目尻に引いたり、頰紅や耳たぶにも使われ、ほんのりと色っぽく、また血色をよくみせるためのアイシャドウやチークとして使われていました。
ところで、紅絹(もみ)といえば真紅に染められた薄い平絹のことで、紅花で染めた赤は明るくてあたたかかみのある見事な真紅です。紅花は木綿には染まりにくく、絹には染まりやすいという特性もありました。この紅絹(もみ)は、かつて女性の下着である湯文字や着物の胴裏によく用いられていました。
私はかつて古布研究をしていたので、紅絹の裏地がついた着物をよく見ましたが、紅絹は鮮やかでひときわ美しいので、すぐわかるようになりました。真紅に染める方法は茜や蘇芳、カイガラムシからとるコチニールなどがありますが、紅花は退色しやすく、それが本物の紅絹であることの証でもあります。
一斤染(いっこんぞめ)はこの貴重な紅花一斤(600g)を使って、絹一疋を染めた色のことで、優しいペールピンクです。
退紅(あらぞめ)はそのさらに半分の紅花で染めた色で、庶民にも許された聴色(ゆるしいろ)でもありました。
昔の人にとって真紅は夢のまた夢。それでも紅花で染めた布に憧れがあったのでしょう。伝統色では韓紅(からくれない)が茜や蘇芳ではない紅花だけで染められた深紅で、禁色とされました。
紅は女性の肌着によく用いられていたほか、赤ちゃんの産着にも用いられてきました。紅には魔を払う魔除けの効果があると考えられていたためです。これは決して迷信ともいえず、近年は紅花のさまざまな効能が見直され、血行促進や浄血作用、抗菌、冷え性や婦人科の不調を改善することが証明されています。
紅花の原産地はエジプトで、中国の呉の国から来た藍色という意味で、「くれのあい」が転じて、「くれない」という言葉になりました。「紅花は末より咲けばやがて末より摘む」ともいわれ、奈良時代には末摘花(すえつむばな)と呼ばれていました。『源氏物語』に登場する末摘花は、源氏がつけた女性のあだ名で「鼻が赤い」を「花が赤い」にかけた名前で、源氏を一途に信じて思いを遂げた女性でもあります。
紅花の花はアザミに似ていて、咲き始めは黄色ですが、次第にオレンジ、そして赤に変わります。収穫するのは7〜8分咲きの頃。紅花に含まれる色素の多くは黄色で、赤の色素はわずか1%。このわずか1%を抽出するために花を何度ももみだしたり、陰干ししたり、発酵させたり、さまざまな工程があり、媒染には未熟な梅の実を燻製にした烏梅(うばい)も必要でした。昔の人の技術はすごいものだなと思います。
一度だけ紅花の収穫を手伝わせてもらったことがありますが、ゴムの手袋をしても痛いほど花のつけ根に鋭い棘があり、これを素手で摘まなければなからなかった人々はどんなに苦労したことか、と驚きました。花摘みは棘がやわらかくなっている早朝に行われたそうです。一体、どれだけ摘まれたくないのか、と思うほど頑丈で、鋭い棘です。
文責・高月美樹
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