おはようございます、こんにちは。編集者の藤田華子です。
2月21日の今日は「漱石の日」。夏目漱石の誕生日か命日かと思われた方もいるかと思いますが、そうではありません。1911年の同日、彼が文部省からの文学博士号授与を「自分には肩書きは必要ない」と辞退し、世間をざわつかせた事件に由来して漱石の日と定められたのです。
なぜ彼は、文学博士号授与という、当時大変名誉とされていたチャンスを拒否したのでしょう?探っていきます。
まず、夏目漱石について簡単におさらいです。千円紙幣の肖像でお馴染みの漱石。<私は其人を常に先生と呼んでいた>という有名な書き出しで始まる代表作『こころ』の累計発行部数は、なんと約718万部。日本の小説というジャンル史上No.1の売り上げを誇るのではないかといわれています(何を小説と定義するかにもよるので、あくまで一説です)。文学に明るくない方でも、国語の授業で『こころ』『坊ちゃん』『吾輩は猫である』などに触れた経験があるのではないでしょうか。
1867年2月9日に現在の新宿区喜久井町に生まれ、1916年12月9日に50歳(49歳10ヶ月)でこの世を去ります。彼が生まれた翌年の1868年に年号が変わり、時代は明治に。そして亡くなる1916年は大正5年ーーつまり彼は、明治時代そのものを生きた人でした。
当時の世相を知ることは、「漱石の日」を深く理解するためにとても重要です。
明治時代は、長きにわたる江戸時代が終焉を迎え、一気に近代化が進んだ時代です。新政府は1日でも早く中央集権制の独立国家を作り上げようと、法権的諸制度を次々に撤廃し、欧米の近代的な制度を導入することに全力を傾けました。文明開化によって西洋の建築や食、衣服などが大流行し、ひとびとの生活にも大きな変化がもたらされたのです。
そして日清・日露戦争という2つの戦争の勝利は、日本に大国化という幻影を抱かせる要因になりました。
一方で反政府運動が盛んに行われ、政府による弾圧と民権派の抵抗が多くの事件を生み出しました。農村の疲弊や都市の労働力不足も深刻化し、華やかで浮かれた空気が漂う裏には、悲惨な現実があったのです。
漱石は冷静に、ときに冷笑しながら、そんな浮き足立つ世相に切り込みました。その様子は作品の端々からも読み取れます。
三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か、大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらしている『吾輩は猫である』
こんなふうに世の中を見た漱石ですから、決して権力に媚びることなく、そして権力が学問や文学に介入することを嫌っていました。文学者として、反骨精神を持って文学博士号授与を辞退した心が見えてきますね。
『博士問題の成行』では、自身の気持ちをこのように述べています。
博士制度は学問奨励の具として、政府から見れば有効に違いない。けれども一国の学者を挙げて悉く博士たらんがために学問をするというような気風を養成したり、またはそう思われるほどにも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れている。余は博士制度を破壊しなければならんとまでは考えない。しかし博士でなければ学者でないように、世間を思わせるほど博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至ると共に、選に洩れたる他は全く一般から閑却されるの結果として、厭うべき弊害の続出せん事を余は切に憂うるものである『博士問題の成行』
政府が、当時極めて立派な業績を残した学者にしか与えなかった博士号。「それを拒否するなんてとんでもない!」という批判もあり、文部省とのあいだで何度も行ったり来たりのやりとりが行われたといわれています。しかし漱石は、最初に文部省に送った手紙に綴った「ただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております」という意思を貫き通しました。
誕生日でも命日でもない今日が「漱石の日」と定められているのは、そんな漱石の姿勢に触れたひとびとが、改めて彼に敬意を払い、文学という学問を見つめ直そうという想いからなのかもしれません。漱石の作品はすでに著作権が切れ、Web上で自由に閲覧できるものもあります。この機会に、ぜひ。
藤田華子
ライター・編集者
那須出身、東京在住。一年を通して「◯◯日和」を満喫することに幸せを感じますが、とくに服が軽い夏は気分がいいです。ふだんは本と将棋、銭湯と生き物を愛する編集者。ベリーダンサーのときは別の名です。
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