三五夜 ― 友を想う月
中秋の名月には、数多くの呼び名があります。十五夜、芋名月、明月、玉兎、望の月…。その中でも「三五夜(さんごや)」「真如の月」、そして禅の教えに通じる「指月(しげつ)」は、人の心に深く響く表現です。
「三五夜」は三×五で十五をあらわし、十五夜のことを指します。唐代の詩人・白居易は、遠く離れた友を思ってこのように詠みました。
三五夜中新月色
二千里外故人心
ここでいう「新月色」は、月齢ゼロの新月ではなく、十五夜に昇ったばかりのピカピカの月を指しています。白居易はその月を眺め、左遷によって遠く二千里の地へ去った友人の心はいかばかりかと、思いを馳せたのです。この詩は千年以上にわたり日本人にも愛唱され、「月を見て人を想う」感性を育んできました。
美しい月を見たとき、あの人はどうしているだろうか? この同じ月を見ているだろうかと思ったり、この美しい月を見せたいと感じたことはありませんか? 先祖たちの抱いてきた想いが、私たちの心にも受け継がれています。
真如の月 ― 心を磨く光
さらに日本では、月と「木賊(とくさ)」が結びつけられました。木賊は金属や木を磨く天然のやすりとして重宝され「月に木賊」といえば磨き上げた鏡のように澄んだ月を意味しました。
世阿弥の謡曲『木賊』には「胸なる月は曇らじ、研くは真如の玉ぞかし」という一節があり、月は人の心を磨く重要な存在として表されています。「真如の月」とは、曇りなき満月を悟りの象徴とする言葉です。たとえ雲に隠れて月が見えなくても、胸の内にある「真実の光」は曇ることがないのです。
月を眺めることは、そのまま自分の心を磨く行為でもありました。
指月 ― 本質を指すもの
禅の世界ではさらに「指月(しげつ)」という表現があります。月を尋ねられ、指さされたその指先しか見ずに月を見失うことのたとえで、本質は言葉や形ではなく、その先にあるのが真理であることを伝えています。
江戸後期の禅僧、仙厓義梵(せんがいぎほん)の描いた『指月布袋画賛』はその典型です。ふくよかな布袋さんが子どもと戯れる牧歌的な画面に、当時流行っていたわらべ歌「を月様幾ツ、十三七ツ」が添えられ、円満な悟りを月に、指を経典に見立てられています。難しい理屈なしに本質を伝える仙厓の禅画は昔も今も多くの人に親しまれています。
言葉(指)に囚われると真理(月)は見えなくなる。禅の「不立文字」をユーモラスに伝えています。月は描かれていませんが、言葉や文字にとらわれることなく、その奥にある真理を悟れという禅の教えです。
月が導く心の光
こうして「三五夜」は友情を、「真如の月」は悟りの光を、そして「指月」は真理の在処を教えてくれます。
昔の人にとって、月は単なる天体ではなく「祈りを託す光」であり、心を磨き、真実へと導く存在でした。『源氏物語』や和歌の世界に数多く月が詠まれてきたのは、月が隠された真理や、人が本来持っているまっすぐな心を静かに映す存在だったからにほかなりません。
忙しい日々の中でも、ふと立ち止まり、夜空を見上げて月を愛でる。たったそれだけで、自然とつながり、心の中に静かな光が灯るのを感じるはずです。今年の中秋の名月も、空に輝く月のむこうに、自らの内に澄む光を、そっと味わってみてください。月の光は、外にあると同時に、私たちの内にもあるのです。
文責・高月美樹
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