和暦研究家の高月美樹です。
「熊蟄穴(くまあなにこもる)」は七十二候の中で、もっとも好きな一候です。
七十二候の多くは、気象の変化や花の開花、鳥や蝶など、実際に目でみることができるものですが、熊が穴にこもる瞬間というのは、絶対に人が目にすることができない光景です。
今年はドングリが全国的に不作で、熊の出没が度々ニュースにとりあげられていますが、原因はドングリの不作だけではないともいわれています。山の熊道にクリやカキを置いて、里山に降りないようにしている団体もあるようです。先日、ワシントン州に在住する知人も、例年なら敷き詰めるように降るドングリが今年はほとんどないとのこと。ドングリの不作は日本だけの現象ではないようです。
ところで、「熊穴に入る」といえば初冬の季語、「熊穴を出ず」は仲春の季語ですが、単に「熊」といえば、活動期の夏ではなく、冬の季語になります。
面白いですね。実際にみることがないのに、です。昔から人々が冠雪の始まった山を見上げ、冬ごもりする熊をそっと思いやってきたからかもしれません。人と熊は出会うことなく生きていくのがいちばんですが、たとえ会うことがなくても、共に生きるものへの慈しみや畏敬の念が季語になっていくのでしょう。
「小雪」の頃にチラチラと降り出した雪はあとかたもなく消えてしまいますが、「大雪」の頃になるとはっきりと消え残るようになって、山の頂はもう粉砂糖をかけたように、真っ白になっています。
二十四節気の「小雪」や「大雪」も、都会の人にはピンとこない、ということになりますが、節気も七十二侯と同様に、遠くに住むものや、遠くにある景色を「心の目」で見なければ、みえてきません。
昔の人はよく「奥山(おくやま)」とか「深山(みやま)」という言葉を使いましたが、人を寄せつけない山の奥で繰り広げられていることを想像の目でみていたのでしょう。
「もののあはれとは命の儚さや愛おしさを知ること」と本居宣長は説きました。それは自分だけの解釈に限らず、相手の身になれる共感能力や、目に見えないものを思いやる大和心に通じています。循環する命のつながりは、想像することなしに感じることはできません。
ドングリが豊作だった年は妊娠する熊が多くなり、不作の年は少なくなるそうです。来年生まれる子熊は、少ないかもしれませんね。熊の出産は1月頃。年が開けたら、今頃、母熊は無事に出産をしただろうか、子熊たちはあたたかいお母さんのお腹の上で、ぬくぬくと順調に育っているだろうか。ぜひそんな想像をしてみてください。決して見ることのないあたたかい風景です。
メスの熊は穴の中で小熊を育て、子どもたちが十分動けるようになってから出てくるので、オスよりも長く冬ごもりし、晩春にやっと出てきます。あの大きな身体で数ヶ月も何も食べず、お乳を与え続けるのですから、どんなにか空腹なことでしょう。
出てくる頃にはすっかりやせ細り、しかも幼い子供を連れている母熊はとても神経質になっているそうです。春のフキノトウやクマザサの新芽、ブナの若芽などが好物で、山菜採りにでかけた人が出くわすと大変、危険です。
山に入るときは、人間の方が彼らのテリトリーに入っている、ということを忘れないようにしたいものです。私も定期的に熊のいる森に入らせてもらっていますが、甲斐犬の血をひくフジコという犬を放して、一緒に入っています。熊がいれば、間違いなく知らせてくれるたくましい番犬ですが、今のところはネズミやヘビを見つけて吠えています。
「熊蟄穴」は熊だけでなく、リスやヤマネなど、多くの動物が眠りにつくことも想像できる、生きるものへの愛しみにあふれた一候です。
※七十二候(しちじゅうにこう)は、日本の1年を72等分し、季節それぞれのできごとをそのまま名前にした、約5日ごとに移ろう細やかな季節です。
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