自然界はすでに夏の気配が濃厚になってきていますが、日本の春は最後の最後まで暖かさと寒さとの綱引きが続き、まるで富士山の裾野のように長く、長く尾をひきます。その心配がなくなるのが立夏ともいえます。
「忘れ霜」はちょうど今ごろの季語。霜の果て、霜の別れ、終霜など、たくさんの子季語があることからもわかるように晩春は思いがけない冷え込みで、農作物に被害が出ることがあり、恐れられてきました。
「八十八夜の別れ霜」という言葉もあり、八十八夜は5月2日ごろ、立夏は5月5日ですので、日本の寒さは立夏の直前まで続く、ということになります。八十八夜は茶摘みの時期として知られていますが、天候がようやく安定するので種まきや苗の移植を始める目安でもありました。
田んぼでは苗代作りの季節を迎え、田んぼに水が引かれ、代掻きが始まります。
今年もいよいよ始まるなあ、とすがすがしく胸がふくらむ瞬間です。
田植え前の田んぼは空の青さや流れる雲を鏡のように映し、もっとも美しい景色が広がります。まさに目を見張りたくなるようなすがすがしさ、水の国、日本の原風景です。
春の語源はたとえば天気の「晴る」、草木の芽が「張る」、水を「張る」、万物が「発つる」、田畑を「墾る」、目を「見張る」など、さまざまな言葉で使われていますが、基本的には広々として見通しが明るくなること、万物が清明な様子をさしています。「はる」に「ふ」をつけると「はらふ」という言葉になります。明るく、見晴らしがよく、目を見張るような景色は春そのものです。
これはうちの田んぼの指導をしてくれていたおじいさんの保温折衷苗代です。昔ながらのやり方で、養分をたっぷり含んだ山の土を運び入れ、丹念な工程を経て、種もみのためのふかふかのベッドを作ります。
均一に苗を育成するには平らであることが大事なので、最後は左官屋さんの壁ぬりのようにコテを使ってていねいに仕上げていきます。ベッドをきれいに仕上げたら、四隅に縄を張り、苗床の境界線を作って土台は完成。
そして、いよいよ種まき。ぬるま湯につけて発芽させておいた種もみをパラパラと、均等になるように撒いていきます。最初の年は「そんなんじゃだめだ」と怒られましたが、何年かすると不思議と慣れてきて、手首の振り方がうまくなってきます。「大きくなあれ」「がんばってね」とそっと祈りながら撒く、心弾む時間です。
周囲の水の中にはすでにおたまじゃくしがうじゃうじゃと誕生していて、水中は人間の足や鍬で乱暴に掻き出されたりして、てんやわんやになっています。
その後の工程は割愛しますが、一ヶ月ほどすると、こんなふうに見事な苗になり、若々しいこの苗の色を「若苗色」といいます。明るく、目を細めたくなるような、眩しい色です。
苗代の中にはカエルが何匹もいて、微笑ましい光景を作ります。今年のおたまじゃくしを生んだ親たちです。まだ田植え前の田んぼで、そこだけ密に生えた苗代は格好の隠れ家になっています。
苗代をつくる田んぼは、他よりも先に水を引くことが多いので、苗代水(なわしろみず)、苗田(なえだ)などの季語があります。苗代時(なわしろどき)、苗代道(なわしろみち)などの季語も、苗代を愛しみ、苗代を眺めてきた人々が生んだ言葉です。
果実にも苗代の名がつけられたものがあります。アキグミは春に花を咲かせ秋に実をつけますが、ナワシログミ(苗代茱萸)はその逆で、ちょうど苗代の季節に赤い実をつけ、秋に白い花を咲かせます。
ナワシロイチゴ(苗代苺)はラズベリーに似た木苺の仲間で、田植えの頃に熟すのでこの名があります。
田んぼの苗だけでなく、自然界にもたくさんの若苗色があります。晩春から初夏にかけてのみ見られる、眩しく明るい新芽の色、みずみずしい新葉の色。この季節、いちばんの目のご馳走です。
文責・高月美樹
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