霞の衣
春を司る女神といえば、佐保姫(さほひめ)。煙るように淡い色合いになっていく山の景色はほのぼのとして、春の希望に満ちたのどかな風景です。佐保姫は陰陽五行説で春が東の方角をさすことから、奈良の東にある佐保山がその名の由来です。
さまざまな木々の芽が萌え出し、山全体がふんわりとみえることから、山は春の女神のまとう衣、そして山にかかる三日月は女神の簪(かんざし)、霞(かすみ)は女神の衣の裾(すそ)にたとえられてきました。そのため「霞の衣」は、季語になっています。
芭蕉の代表的な句です。江戸時代の歳時記『改正月令博物筌』によると佐保姫とは「かたちあるにあらず、天地の色を織り成すを仮に名づけたるなり」と書かれています。つまり佐保姫とはそれぞれが感じる春の光景そのもの。全国の山々に春の女神は宿っていて、名もなき山にもその姿ははっきりと現れているということになります。
霞
霞(かすみ)は水蒸気をたっぷり含んだ空気で、景色がかすんでみえるという点で、秋の霧(きり)と現象としては同じですが、春限定の表現です。寒さのゆるみとともに、土や植物の発するどこか甘やかな香りも含んで、ふっと優しい気持ちになるのが春の霞。秋の霧とはやはり趣が違います。山蒸し(やまうむし)は、山間部で春の芽吹きをうながす霧や雨のこと。しっとりとした空気に包まれ、木々が喜んでいる様子が目に浮かびます。
春天
春天は穏やかな春の空。春陰(しゅんいん)は春の曇りがちな空。
三寒四温で天気のよい日ばかりではなく、必ず雨が降り、風が吹き荒れるのが日本の春。春は、雨や風とともにやってくるともいえます。水分や塵を含んだ春の空は、雲がない日でも全体にほの白く、輝いてみえます。はっきりと霞だと思うことは少ないかもしれませんが、青い空が広がる快晴の日でも地平線に近いところに目を向けていただくと、白っぽくなっているのが見えると思います。夏や秋とは違う、地上近くのほわっとした白さに春が漂います。
朧(おぼろ)
そして夜は霞(かすみ)とはいわず、朧(おぼろ)といいます。月の前を水の神である龍が通っている。そんな姿を想像していただければわかりやすいですが、朧(おぼろ)は月だけでなく、夜の万象がかすんでみえることをさします。
たとえば、星がぼやけてみえる星朧(ほしおぼろ)。遠くの光がかすんでみえる朧影(おぼろかげ)。家々の灯がぼんやりと見える灯朧(ひおぼろ)。草地がかすんでみえる草朧(くさおぼろ)。庭の木々がけむったようにみえる庭朧(にわおぼろ)、山や谷をかくす谷岩朧(いわおぼろ)や朧(たにおぼろ)。
見えるものだけでなく「ボーン」とかすかに聞こえてくる春の鐘の音を鐘朧(かねおぼろ)といったりします。春はどこかゆるみがあって、ふんわり、ぼんやりがよいのでしょう。
おぼろ雲は薄墨を流したような灰色の高層雲で、うす雲ともいいます。早春ははっきりした輪郭を持たない雲に覆われて全体にうすぼんやりと暗かったり、明るかったりすることが多いのですが、春が深まるにつれて、ぼっかりと白い雲が浮かぶようになります。空の変化からも季節の推移を感じることができます。
刷毛雲(はけぐも)
春の風が強く、天気のいい日に見えるのが刷毛雲(はけぐも)です。鳥の羽のように先端が巻いている巻雲(けんうん)や、繊細で透き通ったすじ雲などが青い空に浮かんでいます。
実際に霞(かすみ)や朧(おぼろ)がよく見られるようになるのは晩春になってからですが、流れるような淡い雲やうっすらと白んでいる空にも目を向けてみてください。
七十二候の「霞始靆(かすみはじめてたなびく)」は雨水の末候で、冷たい雨がふんわりとあたたかい雨に変わるころ、と解釈していただければと思います。
春の雨は雨粒の小さい、霧のような小糠雨(こぬかあめ)や、降ってはすぐに止んでしまう春時雨(はるしぐれ)です。雨上がりのふんわりとした空気や、大地の甘い香りを楽しみましょう。
文責・高月美樹
写真提供:高月美樹、松下恵子(※椿の写真を除く)
高月美樹さんの『和暦日々是好日(2023年版)』
和暦の第一人者、高月美樹さんの『和暦日々是好日』は月の満ち欠けをベースにした和暦手帳。
今年で20周年目を迎えました。ビジュアルとコラム満載の本のような一冊。和暦では如月に入りましたが、今年は閏二月が入りますので、あと十二ヶ月あります。
〈ユーザーの声〉
「毎年同じようにめぐる季節も、和暦を基準に日々の変化に気づけるようになってきました」
「この手帳の使い方に書かれているように、ふと気づいたことや気になったヒト、モノ、コトを記録してきました。その結果、本当に必要なものや、自分が向かっている流れがひとつのつながりとして感じられるようになってきました」
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