こんにちは。俳人の森乃おとです。
夏の野原を彩る草花の一つに、可憐な淡い紫色の花を穂状に咲かせるクマツヅラ(熊葛)があります。洋の東西を問わず薬草として名高く、生薬名は「バベンソウ(馬鞭草)」。古代ローマにおいては「聖なる植物」、中世ヨーロッパでは万病を癒す「魔法の草」でした。
クマツヅラ科クマツヅラ属の多年草で、アジア、ヨーロッパ、アフリカ北部に広く分布。日本では、北海道をのぞく全土の原野や山地に自生し、古来親しまれてきました。
上に揚げた和歌の作者は、平安時代前~中期、陸奥按察使 (むつあぜち)に任じられた公卿・歌人。歌の意味は「遥かみちのくのつつじが岡への道は遠く、生い茂るクマツヅラを踏み分けての旅は苦しいけれど、それよりもあなたの心が薄情であることの方が辛いと、今日知りました」――。
ちなみに榴ヶ岡は歌枕として知られ、「躑躅岡」とも表記。現・宮城県にあります。
クマツヅラは草丈30~80cm。茎は四角形で、対生する卵形の葉は3裂または羽状に深く裂けます。花期は6~9月、枝先に細長い穂状花序をつくり,径4mmほどの小さな淡紫色の花をつけ、順次、下から上へと咲きあがります。花は筒型で先端が5裂し、そのため5弁花のように見えます。
クマツヅラの名が初めて歴史に登場するのは、平安時代中期に編纂された日本最古の漢和辞典である『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』。その中で、漢名「馬鞭草」の和名として「久末豆々良(くまつづら)」が紹介されています。「馬鞭草」の名は細長く伸びた花序の様子を馬に用いるムチに例えたもの。和名の由来には諸説がありますが、「馬鞭草」から「ウマウツツラ(馬打葛)」となり、それが転訛したともいわれます。
薬効は、解毒、鎮痛、消炎、止血などさまざま。開花期に全草を刈り取り、日干しにして乾燥したものが生薬の「バベンソウ(馬鞭草)」。打撲傷、打ち身などの薬として使用します。
クマツヅラの学名はVerbena officinalis(バーベナ・オフィシナリス)。属名のVerbenaは、ラテン語で「祭壇を飾る草」あるいは「予言の花」を意味するとも。種小名のofficinalisは「薬用の」という意味です。昔から薬用植物として知られていることから名づけられました。
古代ギリシアやローマでは重要な神事用の植物であり,占いや呪術にも使われました。軍神マルスに捧げられ,和睦交渉や宣戦布告を行う使者の冠は、クマツヅラで編んでつくられたとか。英名ではVervain(バーベイン)と呼ばれ、鳩がこの草を好んで食べることから「Pigeon grass(鳩の草)」の名も持ちます。
キリスト教の伝説では、十字架にかけられたイエス・キリストの出血を止めた薬草として神聖視されました。そのため、この草を摘むときには十字を切り、祭文を唱えたそうです。
子どもの洗礼のときには、クマツヅラを身体に結んで魔除けとし、また、白いリボンにくるんで首に巻けば、蛇に噛まれないお守りになるとも信じられました。
クマツヅラの花言葉は「魔法」「魅惑」「愛情」です。
フランスの作曲家クロード・ドビュッシー(1862~1918年)の初期の歌曲には、有名なおとぎ話を題材にした『眠りの森の美女』があります。詩はヴァンサン・イスパ(1865~1938年)。歌曲の中で、クマツヅラとハナハッカが咲く森が詠われます。
中世ヨーロッパでは、クマツヅラは霊草としてさまざまに用いられましたが、その一つが催淫効果。愛を燃え上がらせたい時には、理想的な惚れ薬となります。そしてシソ科のハナハッカはマジョラムとも呼ばれ、甘い芳香を放って安らかな眠りを誘います。魔法の草花が咲き乱れる森の奥深く、美女が眠る城へとただ一人向かう王子の姿の、なんと幻想的なことでしょう。
花言葉は、いずれもクマツヅラの持つ不思議な力への信仰から生まれたものです。
さてクマツヅラは、種だけでなく地下茎でも増えていく繁殖力のある草花です。しかし近年、富山県や京都府などで絶滅危惧種に指定されるほどに、生育数が減少しています。今では、散歩道でこの薄紫色の小さな花と出合えることこそが、魔法のような幸運なのかもしれません。
クマツヅラ(熊葛)
学名 Verbena officinalis
英名 Vervain, Common verbena, Pigeon grass
クマツヅラ科クマツヅラ属の多年草で、アジア、ヨーロッパ、アフリカ北部に広く分布。日本では、北海道をのぞく全土の原野や山地に古くから自生。バベンソウ(馬鞭草)とも。草丈30~80cm。茎は四角形で、対生する卵形の葉は3裂または羽状に深く裂ける。6~9月、枝先に細長い穂状花序をつくり,径4mmほどの小さな淡紫色の花をつける。全草を薬用とする。

森乃おと
俳人
広島県福山市出身。野にある草花や歳時記をこよなく愛好する。好きな季節は、緑が育まれる青い梅雨。そして豊かに結実する秋。著書に『草の辞典』『七十二候のゆうるり歳時記手帖』。『絶滅生物図誌』では文章を担当。2020年3月に『たんぽぽの秘密』を刊行。(すべて雷鳥社刊)
