こんにちは、料理人の庄本彩美です。今日は「おばんざい」についてのお話です。
猛暑のピークを過ぎ、朝晩にふと秋の気配を感じるようになってきた。秋の空気には、どこか人の心を懐かしい気持ちにさせる不思議な気配がある。そんな哀愁漂う季節になると、私は決まって思い出すお店がある。
社会人になりたての頃、住んでいた家の近くに、小さな小料理屋さんがあった。
開店前の夕方ごろになると、いつも戸が開け放たれていた。店のカウンターの奥では大将が黙々と仕込みをしていて、そのカウンターの上には大小様々な形の器が並んでいるのが見える。
暗がりのカウンターには小さなランプが灯され、器の中のおばんざいを優しく照らしている。夏になれば、器の傍らには賀茂茄子や賀茂トマトといった瑞々しい京野菜が並び、冬になれば、聖護院かぶらや青々とした葉物が顔をのぞかせる。料理の細部までは見えないが、きっと旬の野菜を使った滋味深い料理がずらりと並んでいるんだろうなあと、むくむくと想像が膨らんでいった。
その風景は、どこか見覚えがあるわけではないのに、なぜか懐かしくてホッとする。私はその店の前を通るのが好きで、近づくにつれて自然と自転車の速度を落とし、ゆっくりと走りながら中の様子を眺めるのが日課だった。
何度も思い切って暖簾をくぐってみようと思ったのだが、店先の献立を見ると、焼酎や泡盛などさまざまなお酒の名前が並んでいる。カウンターだけのこぢんまりとした店構え。おひとりさまご飯をする勇気がなかった当時の私には少し大人っぽすぎて、結局入れずじまいだった。
私にとって「おばんざい」は、憧れの存在だった。
今では地元よりも長く京都に暮らすようになり、料理を仕事にして台所に立つ日々。いま、私の手元にはあの店で見かけたような元気いっぱいの夏野菜があり、鍋の中では出汁が静かに湯気を立てている。
「おばんざい」という言葉は、日常的に食べられるお惣菜のことを指す京都の言葉だ。「お菜(おさい)」に丁寧語の「お」が付き、さらに「常(つね)」を意味する「常菜(じょうさい)」や「番菜(ばんさい=日常の、または順番に作るお惣菜の意味)」から変化したと言われている。いつの間にか私にとってもおばんざいは、憧れのものから、日々の暮らしそのものへと変わった。
また、日々野菜と向き合うなかで、おばんざいの見え方も少しずつ変わってきた。
昔は「今日はこれを作ろう」とレシピを決め、それに合わせて食材を買っていた。けれど今では、野菜コーナーで「今日はこの子を連れて帰ろう」と、食材と目が合うような感覚で買い物をすることが増えた。その日の出合いや体調に合わせ、その場で組み立てていく。いつしか定番の名前のある料理よりも、レシピにとらわれない「名前のない料理」を作ることも多くなった。
おばんざいの言葉の由来には、「始末の精神」も根底にあるという。京都は三方を山に囲まれ、かつて流通や保存の制限がある中で、手に入る限りの季節の食材を余すことなく美味しく食べるため、知恵の積み重ねで生まれたのがおばんざいなのだ。
料理をしていると、あの夕暮れに見た小料理屋の灯りは、私の中に在るのだと、ふと気がつく。
今日も台所には、名残の夏野菜と秋の気配が漂っている。この旬を余すところなく使い切ろう。そして今夜も、我が家の食卓にはおばんざいが並ぶのだ。

庄本彩美
料理家・「円卓」主宰
山口県出身、京都府在住。好きな季節は初夏。自分が生まれた季節なので。看護師の経験を経て、料理への関心を深める。京都で「料理から季節を感じて暮らす」をコンセプトに、お弁当作成やケータリング、味噌作りなど手しごとの会を行う。野菜の力を引き出すような料理を心がけています。
