僧侶でライターの小島杏子と申します。
生活のなかに息づく、仏教と暦のことについてお話します。
目がかゆい。鼻がむずむずする。肌もかゆい。
春と秋の私はだいたいこんな感じ。
もちろん原因は花粉です。
よくもまぁ毎年律儀に飛んで来るものだ・・・と思うが、当の花粉にとっては子孫繁栄のための大切な旅路なのである。それなのによくわからない人間の鼻の穴に飛び込んでしまったなんて、花粉も浮かばれない。
今年もむずむずしてきたので、そろそろ春のお彼岸だなと思うわけです。
日本のお寺では、春と秋にお彼岸の法要が勤まるのをご存知でしょうか?正確には、春分の日と秋分の日を中日として、その前後3日、合計7日の期間がお彼岸と呼ばれます。この時期に、人々はお寺やお墓に参るのです。
ちなみに、お近くのお寺でもなにか行事が行われているはずなので、気軽に訪ねてみると良いかもしれません(気軽に行くのは不安すぎる・・・という人は、事前にお寺に電話していろいろ聞いてみてください!たいていの僧侶は意外そうにしながらも喜んで教えてくれるはず)
とはいえ、こんな風にお彼岸に法要をしたり、お墓参りをするのは、日本だけの習わしなのです。
じゃあもともとの彼岸って、何なんだ?という話をしましょう。
そもそも「彼岸」という言葉自体は、何を指すのか。彼岸とは、「悟りの境地」、「仏さまの世界」のことをあらわす言葉です。お浄土、という認識でも良いと思います。それに対して、いわゆる俗世、私たちが今生きている世界を此岸(しがん)といいいます。
「この岸」と「かの岸」ということで、「此岸」と「彼岸」です。
此岸はインドの古い言葉で「サハー」といい、その意訳は「忍土」とか「堪忍土」というものになります。これは読んで字のごとく、耐え忍ばねばならない世界ということ。仏教の世界では「この世は苦である」が基本的な認識なのです。
では、此岸に身を置く苦しみとは何か。それは、この世界に生まれ、老い、病に臥し、思い通りにならない心に振り回されながら、やがて死んでいく……という抗えない流れに、それでも逆らおうとするところにあります。
なにひとつ思い通りにならない現実と、思い通りにしたいと望んでしまう自分の心。そこに苦しみが生まれてくる、というわけです。
そんな、惑わされ続けるあり方から解放された、安らかな悟りの世界を求めて、人々はいつか彼岸へ至ることを願い、仏さまに手を合わせてきたのでしょう。
さらに、ここに阿弥陀さまの世界、西方浄土の思想が重なったことで、日本独特の「お彼岸」が始まったと言われています。
西方浄土とは、読んで字のごとく、西方にあるお浄土のこと。つまり「彼岸」。まぁしかし、ずんずん西に向いて歩いていけば実際にお浄土があるということではないです。
美しい夕日が沈むはるか彼方に、昔の人々は浄土を重ね合わせ、「きっとあのように美しい場所に、死んでしまった愛しいあの人たちは参っているはずだ」と、夕日をよすがに手を合わせたのではないでしょうか。
そういうわけで、春分の日、秋分の日という節目を縁として、西の彼方にお浄土を思い、夕日に手を合わせるという文化が生まれたのではないかと言われています。大切な人、もう二度とこの世では姿を見ることが叶わない人のことを偲び、そしてなにより自分自身のいのちの道行を思う、春秋のひとときを、日本人は過ごしてきたのです。
いや、しかし。なにも日本人ばかりではありません。胸にさまざまな思いを抱えて夕日に向かいたくなるのは。
数年前、エストニアのタリンという港から、ヘルシンキへ向かってバルト海を渡るフェリーに乗ったときのこと。せっかくだから夕暮れを眺めようとデッキに出てみると、そこにはたくさんの先客たちがいました。私のあとからも次々と人が集まってきます。
夕方のバルト海。陸地は見えず、海と空だけが世界を分け合う。そして、心細いほど広大な海に、たったひとつの太陽が水平線に滲みながら沈んでいく。
その様子を、みなが、寒いデッキに立ち尽くして眺めていたのです。異なる言葉を話し、異なる環境のなかを育ってきた人たちが、たったひとつの夕日を。
夕日は、人の心に、どこかいつもとは違う感情を引き出す力があるのかもしれません。そこに日本人だとかそうじゃないとかいう違いはありません。
誰であれ、いつかはこの世のいのちを終えていく。当たり前だけど、普段は忘れがちなことを、思い出すために春や秋のお彼岸があるのかもしれません。
ただ自分のいのちと向き合い、手を合わせる。
「私はこうあらねば」「これが私の役割だ」「親として、子として、妻として、夫として、パートナーとして、上司として、大人として……」世間を生きるためのたくさんの責任や、自分で自分に貼り付けたラベルを、しばし置いておいて。
忙しい日々の歩みを少しゆるめ、春のひととき、そういう時間を過ごしてみるのも、悪くないと私は思います。
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