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渋川春海しぶかわはるみ

暦とならわし 2022.11.01

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渋川春海(はるみ)は貞享(じょうきょう)改暦(1685)の主役であり、映画にもなった小説『天地明察』(冲方丁、2009)の主人公としても知られています。映画では岡田准一さんが演じておられました。

平安時代から823年ぶりの改暦でしたが、それは幕府と朝廷の綱引き、よく言えば連携の産物でもありました。五代将軍綱吉は改暦を幕府の事業とみなし、その完成を喜び、新たに天文方を設置し、春海を初代に据えました。

他方、朝廷は改暦の前年に陰陽頭(おんみょうのかみ)の土御門泰福(つちみかどやすとみ)に改暦の宣下(せんげ)を出していたので、改暦は土御門家がおこなったものと考えていました。春海は土御門家の補助員とみなされていたようです。前述の小説の出だしは帝による改暦の宣下がくだされる場面です。春海45歳、泰福29歳。

もともと春海は第2代安井算哲を名のる碁打ちでした。京都に居を構え、秋・冬は江戸ですごし、将軍の前で「御城碁(おしろご)」を打つのが職務でした。しかし、少年時代から算術や天文測量に興味をもち、会津藩主で四代将軍家綱の後見人でもあった保科正之に見出され、天文暦学の研鑽に励むようになりました。

保科は儒学に傾倒し、神道にも造詣が深く、改暦の必要性を認識し、春海に白羽の矢を立てたのです。春海のほうは、泰福とともに垂加(すいか)神道を提唱する山崎闇斎(あんさい)の門弟として、『日本書紀』の神代巻や儒学を学んでいました。そのため闇斎が朱子学を取り入れた神道を確立したように、中国暦法をそのまま導入するのではなく、中国と京都の距離を考慮した、日本にふさわしい暦法を作成しようとしました。

そうして、一度は日食の予想をはずすという挫折を味わい、ようやく仕上げたのが「大和暦」です。これは中国の元が採用していた授時暦を基本に、マテオ・リッチの世界地図を参照しながら、自分たちの京都での観測を加味した暦法でした。さいわい大和暦は帝の宣下によって採用され、「日本でつくられた最初の暦」と称されたりもしますが、実態は中国暦を多少改変したものにすぎません。実際、「大和」という冠ははずされ、年号にあやかって「貞享暦」と呼ばれるようになりました。

幕府天文方となった春海は暦の草稿を作成するとともに、おおくの門弟に暦算を教えました。また、天体観測をつづけ、天変が起こったときは将軍綱吉に報告しました。それは古代の陰陽寮がおこなっていた天文密奏に準じるものでした。そして綱吉は凶事を避けるため僧侶の隆光に祈祷を命じていたのです。

参考文献】
林淳 2006 『日本史リブレット㊻ 天文方と陰陽道』山川出版社、37-49頁。

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中牧弘允

文化人類学者・日本カレンダー暦文化振興協会理事長
長野県出身、大阪府在住。北信濃の雪国育ちですが、熱帯アマゾンも経験し、いまは寒からず、暑からずの季節が好きと言えば好きです。宗教人類学、経営人類学、ブラジル研究、カレンダー研究などに従事し、現在は吹田市立博物館の特別館長をしています。著書『カレンダーから世界を見る』(白水社)、『世界をよみとく「暦」の不思議』(イースト・プレス)など多数。

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