こんにちは。料理人の庄本彩美です。今日は「穴子」についてのお話です。
私にとって「穴子」は、ちょっと特別な魚である。それは子どもの頃の記憶に遡る。
小学生の私は、学校から帰るやいなやランドセルを放り出し、友達の家へ遊びに行っていた。遊びに夢中になっていたら、いつの間にか日が暮れていた。もう帰らなければ。
帰り道、よその家から夕ご飯の匂いが漂ってくる。そこの夕ご飯を想像しながら、自分の家を目指す。
「うちのごはんは何だろう?」
家の裏の通りまで来ると、台所から醤油とみりんを甘辛く煮たような、とてもいい匂いがした。日本人ならきっと、子どもも大人も大好きな匂いだ。
「とても美味しそう…!!」私はるんるん気分で、家のドアを開けた。
「おかえり。もう食べられるよ」母が晩御飯を作り終えていた。
その声に家族全員が台所に集まり、それぞれの席に着く。私も飛び乗るように自分の椅子に座った。食卓に目をやると、あの匂いの正体がわかった。穴子丼だ。
穴子一匹を、家族5人で分けた少し小ぶりの穴子丼。うちの自慢の炊き立てごはんの上に、甘辛のタレがしゅんでいる。
「いただきます」
「やっぱり穴子は美味しいね」
「鮮度が一番だよね」
今日あった出来事などを話しながら、いつもの夕食の時間が流れていく。しかし私はひとり固まっていた。最初の一口が食べられないでいた。
「どうして……どうしてこんなことに……」
気づいてしまったのだ。あそこの水槽の中の、あの子がいないことに。
今お茶碗の上に乗っているこの穴子は、うちの「あなごちゃん」だったのだ。
この穴子は3日前に、父が海で釣ってきたものだった。
普段はすぐに母が調理して家族で食べる。しかし今回は釣れたのが珍しかったのか、穴子は水槽に入れられていた。
水槽の横から覗くと、穴子は口をぱくぱくとさせてこっちを見ている。くりっとした小さな目。プラスチックの筒を入れてやると、そこに潜り込んだが、尻尾が見えてとても可愛らしかった。勝手に名前をつけて、心の中で「あなごちゃん」と呼んでいた。
「海の魚は海水を入れてやらないといけないから」
父はそう言って、毎日海から海水を持って帰ってきて、水を替えてくれた。父は生き物が大好きで、家はしばしばちょっとしたムツゴロウ王国状態になった。おかげで私はいろんな生き物と触れ合った。
世話をして寿命を迎えたら、庭にお墓を作った。だから今回もいつか死んでしまうか、また海に返すかだろうとどこかで思っていた。
それがまさか、食卓に出てくるなんて……!
私はいつものようには箸が進まなかった。悲しかった。この穴子は、さっきまで生きていた「あなごちゃん」だ。私を見つめていたあの子だ。
食べたくない。でも、食べなきゃ。重い箸を動かし一口食べてみると、いつもの穴子丼だった。美味しい。
しかし、美味しいと言ってしまえば「あなごちゃん」に悪い気がした。まるで「あなごちゃん」が死んだことを喜んでいるような気がして。感情が渦巻きながらも、神妙な表情で何も言わずに全部食べきった。
「ごちそうさま」
やりきれない気持ちで、自分の部屋へとぼとぼ戻った。食べてしまった。さっきまで生きていたあの子を。どうしてあの子を食べなきゃならなかったのだろう。かわいそうだ。事前に言ってくれず、料理をした母が残酷に思えた。
しかしかわいそうと思うことも、母を恨むことも、何か違うということは分かっていた。
私はあなごちゃんに、愛着を持っていた。だから食べてしまうことが可哀想と思ったし、悲しかった。だがスーパーに並ぶ穴子なら悲しくないのだろうのか。同じように心臓が動き、思いのままに海を泳いでいたはずだ。同じ命だ。
魚にも、肉にも、野菜にだって命はあるし、私はそれを毎日食べているんだ。
これが「いただく」という事なんだ。
自分の中で、人間は生き物を食べ、生かされているということを知った瞬間だった。父と母がこのような気づきを得て欲しくて穴子を釣り、料理したのかは分からないが、この出来事は私の価値観を大きく変化させた。
今、私は台所に立つ側となった。
まな板の上の食材と向き合う時、私は時々あなごちゃんのことを思い出す。包丁を引くとき、あの時のような悲しい思いは、もうない。
「あなたを美味しく料理させていただきます」
私や私の大切な人の体の隅々にまで、あなたのいのちが行き渡るような料理を作りたい。そんな思いで、今日も食材と向き合っている。
庄本彩美
料理家・「円卓」主宰
山口県出身、京都府在住。好きな季節は初夏。自分が生まれた季節なので。看護師の経験を経て、料理への関心を深める。京都で「料理から季節を感じて暮らす」をコンセプトに、お弁当作成やケータリング、味噌作りなど手しごとの会を行う。野菜の力を引き出すような料理を心がけています。
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