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あじのなめろう

旬のもの 2025.05.18

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料理人の庄本彩美です。今日は「あまりの美味しさに、皿に残った身まで舐めてしまう」ことから名付けられたとも言われる「あじのなめろう」のおはなしです。

社会人になったばかりの頃のこと。私は夜の雑居ビルへ、背伸びをするように足を踏み入れた。旧友がひっそりと営むバーがあると聞いて来たのだ。重い扉を開けると、薄暗い店内の奥に懐かしい顔を見つけて、ふっと緊張が緩んだ。カウンターの椅子に腰掛け、まだお酒に慣れない私は果実酒を頼んで、友人の手際の良い動きを眺めていた。

「今日ね、あじのなめろうがあるんだけど、食べてみない?」
突然の友人の言葉に、私は一瞬戸惑った。「なめろう…?なめ、る…?」初めて聞く言葉だ。
「あじのたたきみたいなもんだよ。よかったら、少しでも」友人はそう言って微笑んだ。
たたきなら、大丈夫だろう。どんな味なのか、好奇心がむくむくと湧き上がってきた。

友人が冷蔵庫から取り出したのは、おろしたあじ。それを丁寧に細かく叩き始めた。静かなバーに包丁の音が響く。ボウルに入れられたあじに、刻まれたばかりのネギと茗荷が加わり、清々しい香りが漂ってきた。そしてごま油と味噌も入り、奥深い香りがじわじわと食欲を刺激してくる。最後に鮮やかな緑の大葉が添えられ、小さな器に盛られた「あじのなめろう」が私の前に置かれた。

初めて目の当たりにする「なめろう」は、あじと薬味がねっとり絡み合い、独特の照りを放っていた。正直なところ「美味しそう!」というよりは、初めての料理を食べることへの物珍しさの方が勝っていた。
恐る恐る箸をつけてみると、舌の上でとろけるような、なんとも言えない滑らかな食感が広がった。あじの凝縮された旨みが、ピリリとした生姜や茗荷のアクセント、味噌のコクと共に押し寄せてくる。

「日本酒、飲みたくなるでしょ?」友人がふふっと笑った。
確かに、この濃厚な旨味と心地よい塩味、薬味が生み出す複雑な味わいが、口の中にじんわり残る。すっきり洗い流したいような気持ちになってきた。「あまり詳しくないんだけど…、これは日本酒が合うのかも」私は生まれて初めて、日本酒という未知の世界にも足を踏み入れてみることにした。

なめろうと日本酒をゆっくりと味わいながら、私たちは昔話に夢中になった。おちょこを傾けるうちに、気がつけば夜は静かに更けていった。あの夜の出来事は私にとって、ほんの少しだけ大人の階段を登ったような、特別な記憶となったのだった。

あじは、春から夏にかけて旬を迎える。産卵を前にたっぷりと栄養を蓄えているため、身には豊かな脂が乗り、ふっくらとした食感ととろけるような味わいが楽しめるのだという。特にこの時期のあじは「初がつおならぬ初あじ」と言われるほど珍重され、その新鮮な味わいを刺身やたたきで堪能するのがおすすめだそう。

そんな旬のあじを使ったなめろうは、もともと漁師が船の上で手軽に作っていたのが始まりと言われている。今では家庭料理としてだけでなく、多くの居酒屋でも定番メニューとして親しまれている。
ちょっとした晩酌のお供に、手作りのあじのなめろうはいかがだろうか。私が初めて口にしたあの夜のように、きっとあなたの日常に特別な大人の時間をもたらしてくれるはずだ。

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庄本彩美

料理家・「円卓」主宰
山口県出身、京都府在住。好きな季節は初夏。自分が生まれた季節なので。看護師の経験を経て、料理への関心を深める。京都で「料理から季節を感じて暮らす」をコンセプトに、お弁当作成やケータリング、味噌作りなど手しごとの会を行う。野菜の力を引き出すような料理を心がけています。

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