こんにちは、料理人の庄本彩美です。今日は「鮭のムニエル」についてのお話です。
大人になってからというもの、台所のメニューリストから自然と遠ざかっている料理がある。そのひとつが、「鮭のムニエル」だった。
私にとって鮭のムニエルといえば、家庭科の調理実習で作った記憶や、子どもの頃の食卓の風景。好きな料理のひとつだったが、「なんだか少し子どもっぽいメニューかもしれない」とでも思っていたのだろうか、いつしか大人の食卓の主役からは外れてしまっていた。
しかし、暮らしのかたちが変わり、家に小さな子どもがやってくると、台所の風景はまたガラリと変わった。うちの子は、お肉や魚の「パサパサした食感」がどうも苦手らしく、なかなか箸が進まない。どうしたものかと試行錯誤する日々が続いていた。
そんな中、ふと思い出したのがあの「鮭のムニエル」だった。スーパーで骨とりの鮭を見つけ、「これなら!」とカゴに入れて帰った。
鮭の切り身に塩をふり、しっかりと水分を拭き取ってから、茶こしを使ってさらさらと、うすく小麦粉をまぶす。なんだか魔法をかけているような気分になる。あぁ、これ好きだったな。このひと手間こそが、魚を最高のごちそうへと変身させる大事な魔法なのだ。
フライパンにバターを落とし、ふつふつと心地よい音とともに、香ばしい匂いが台所に広がる。最近の我が家は和食が中心だったから、このバターの香りがやけに新鮮で、そしてほんのりと懐かしい。
きれいな焼き目をつけて火が通ったら完成。子どもの分は、食べやすいように小さく切り分けてお皿に盛った。
ピンク色の鮭が乗ったお皿は、それだけで食卓が明るく華やぐ。子どもはじーっと眺めたあと、手でつかんで口に運んでくれた。
小麦粉の衣が旨味と水分をしっかりと閉じ込めてくれたおかげで、身はしっとりと柔らかく、パサつきとは無縁の仕上がり。小さな口でも無理なくほぐれて、パクパクと次の一口をねだるように食べてくれる。どうやら、すっかりお気に召してくれたようだ。
鮭のムニエルは、フランスの「粉屋の妻(ムニエール)」という言葉から生まれた調理法だという。粉屋の妻が、料理の時にうっかり魚を小麦粉の中に落としてしまったが、もったいないのでそのままバターで焼いてみたところ、これが驚くほど美味しかった――そんな言い伝えが残っている。
魚を美味しく食べられる、理にかなった知恵は、時を超えて小さな子どもの舌にも寄り添ってくれる。
香ばしいバターと甘い鮭の風味に癒される食卓。大人はあとからレモンをキュッと絞り、少しだけ胡椒をきかせて。ひと口運び、「懐かしくて、優しい味。これこれ!」と、思わず顔がほころぶ。
「美味しい」を囲みながら、かつて子どもだった私たちが、親になってまた新しい定番と出会っていく。遠ざかっていたはずの懐かしい味は、いつの間にか、今の私たちの暮らしに欠かせない大切な味になっていた。

庄本彩美
料理家・「円卓」主宰
山口県出身、京都府在住。好きな季節は初夏。自分が生まれた季節なので。看護師の経験を経て、料理への関心を深める。京都で「料理から季節を感じて暮らす」をコンセプトに、お弁当作成やケータリング、味噌作りなど手しごとの会を行う。野菜の力を引き出すような料理を心がけています。
