こんにちは。料理人の庄本彩美です。今日は「ハマグリ」についてのお話です。
「蜃気楼」という言葉がある。
大気中の光の屈折によって、遠くの景色が伸びたり逆さになったり、実際とは異なって見える現象のことだ。中国の言い伝えで、この不可思議な現象は、ハマグリによるものだといわれていたそうだ。
蜃というのは、大きなハマグリの仲間のことで、暖かくおだやかな日に蜃があくびをすると、その吐いた気が楼閣となって空中に現れると考えられていたという。
ハマグリは種類によっては、7〜8年で握り拳大まで成長するものもあるが、蜃蛤になるには、500年を要するらしい。一体どれほど大きいのだろうか。
現代は貝と言えばアサリの方が馴染み深いが、昔は日本を始めとする東アジアの人々にとって、ハマグリは欠くことのできない食材であったようだ。縄文時代の貝塚から産出する貝類でもっとも多いのは、ハマグリだという。
ハマグリはかつて日本各地の沿岸でよく採れ、その美味しさから好んで食べられたそうだ。濃厚で上品なうま味に、昔の人々も魅了されていたに違いない。
ハマグリについては神話に始まり、数々の昔話が残っている。
また、縁起が良い絵柄として家紋の他、日本刀のつばや蒔絵のモチーフなどにもなっている。厄除け、魔除けとしての意味もあるが、2枚の貝の組み合わせが2つとないところから、結納や結婚など縁を結ぶお祝いの食品として用いられてきた。
婚礼にハマグリをと提唱したのは、八代将軍徳川吉宗だったらしい。
享保の改革者で、経済政策として江戸湾で豊富に採れたハマグリを婚礼に、とスローガンを掲げて販売を促したとか。
ちなみに吉宗は結婚5年目に正室と死別以後、歴代将軍としては珍しく再婚せず、正室はただ1人だったそうだ。
幕府の財政を立て直した暴れん坊将軍のことだ、皇族から新たな正室を迎える結婚費用を渋ったのかも知れないが、そこはハマグリにならって一途な愛を貫いたのだと思いたい。
ひな祭りには、ハマグリのお吸い物が添えられる。
ハマグリの旬は冬から春先で、今の4月にあたる旧暦の3月3日がハマグリの食べ納めともいわれる。ハマグリのお吸い物には、女の子の成長と幸せを願うと共に、一人の相手と永遠に仲良く過ごせるようにという親の願いが貝殻に託されている。
この日は上巳(じょうし)の節句と呼ばれる。ちょうど桃の季節なので、今では桃の節句という美しい名でも親しまれる。節句というのは、古代中国の陰陽五行思想による祓(はらえ)の行事を由来とする、季節の節目のこと。
上巳の節句の他に、1月7日・人日(じんじつ)、5月5日・端午(たんご)、7月7日・七夕(たなばた)、9月9日・重陽(ちょうよう)と呼ばれる5つのお節句(五節供)がある。
それぞれの節句には独自の意味があるが、いずれもその季節の旬の食べ物を供物として神に捧げ、のちに人々がその供物を共に飲食することで、邪気をはらい健康に気をつけていた。「節句」は「節供」とも書かれる。
昔の人々にとって、節句は神事であると同時に、祈りを共にすることで人々の絆を深める行事だった。
ハマグリの2枚の貝がピタリと合うのは、ご縁が重なるということだ。
今の時代は人の縁が変化し、多様な形となってあわられている。「縁結び」は単に結婚相手や男女のものだけでなく、仕事や趣味における人との縁や、場所や価値観など、人生で関わっていくものたちとの縁もあると思う。
今日はそんな節目の日だ。春の旬のハマグリを食べてみてはどうだろうか。きっと蜃気楼のように不思議な力をもって、私たちの背中を押してくれるに違いない。
庄本彩美
料理家・「円卓」主宰
山口県出身、京都府在住。好きな季節は初夏。自分が生まれた季節なので。看護師の経験を経て、料理への関心を深める。京都で「料理から季節を感じて暮らす」をコンセプトに、お弁当作成やケータリング、味噌作りなど手しごとの会を行う。野菜の力を引き出すような料理を心がけています。
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