染織家の吉岡更紗です。朱色、紅、古代紫、葡萄色、藍色、萌黄色…日本では様々な美しい色の名前がつけられてきました。今回は、「茄子紺(なすこん)」についてのお話です。
7月に入り、京都は連日猛暑日が続いているなか、洛中では祇園祭も行われていて、暑く、そして熱い日々を過ごしています。染司よしおかの工房は、京都の南、伏見区向島にあります。ここには、かつて湖と言ってもいい位の大きさの巨椋池(おぐらいけ)がありました。池の中にはいくつか大きい島があり、水運としても利用され、夏には蓮の花の咲く風光明媚な池で、平安時代には周辺に貴族の別荘地が建てられ、蓮見の船を浮かべて音楽を奏で、詩を詠み合うなど雅な催しが行われていたそうです。
その後、この地に豊臣秀吉が伏見城、指月城などのお城を建てる際に、併せて築堤なども進め、水路に手を入れたことによって、次第に巨椋池の水が悪くなり、洪水や疫病が流行るようになりました。それに伴い昭和に入ってから干拓がはじまり、少しずつ埋め立てられて、南北を結ぶ国道が通り、東側は住宅地、西側は農地となりました。
広大な農地となった西側には、現在もお米、季節の野菜など育てられていて、路地を歩くと採れたばかりの野菜が販売されているのですが、この季節は胡瓜、オクラ、カボチャ、そして艶やかな茄子が並んでいます。
茄子はインド原産の野菜で、中国へ伝わり、その後日本に伝わったと言われています。『東大寺正倉院文書』に「天平勝宝二年(750年)藍園茄子進上」と書かれており、平城京にあったとされる長屋王邸宅跡から『進物 加須津毛瓜 加須津韓奈須比』と書かれた木簡が出土していて、この頃から日本においても茄子が食されていたことが分かります。「加須津」は酒粕に漬けるという意味合いだと思うので、今も奈良で作られている「奈良漬」が長屋王の生きた時代から食されていたのでしょうか。
茄子の表皮のつやつやした紫色は、アントシアニンの一種であるナスニンという成分で形成されています。この少し赤味のある紫色を「茄子紺」と江戸時代頃から称するようになったと言われています。アントシアニンは水溶性の成分のため、茹でるなど長時間加熱すると色は消滅してしまいますので、茄子の皮を使って染色するということはなく、色見本は紫根染に紫に染めたあと、日本茜をわずかに染め重ねて、やや赤みの茄子を思わせる色目に仕上げています。
江戸時代に、茄子紺という色をどの染料を使って染めていたかということに関しては記録が残っていないのですが、藍染に蘇芳を重ねて紫色にしていたという説もあります。また、紫系の色であるのに「紺」の字を用いているのは、その背景には江戸幕府の奢侈禁止令(しゃしきんしれい)が関係しているのかもしれません。「茄子紺」という色の名前が生まれた江戸時代、紫系を生み出す紫根は、非常に手に入りにくく身に着けられるのは高貴な身分の方々に限られていました。加えて幕府は質素倹約を奨励し、庶民には紫、紅、金糸銀糸など贅沢な色を着ることを禁じるようになります。その当時の町人は経済を動かし大変裕福でしたが、贅沢を禁止されて身に着けられるのは藍や茶、黒系などの地味な色に限定されるようになったので、染料や媒染方法に様々な工夫をして、微妙な色相を作り、それぞれにゆかりのある名前を付けて楽しむようになります。
これは私見ではありますが、町人は何等かの方法で紫根も手に入れつつも、茄子のような色の「紫」、ではなくて茄子「紺」である、と言い張っていたかもしれないなと思っています。更に紫根を使うことを禁じられたとしたら、藍染と赤を生み出す蘇芳を掛け合わせて紫系の色合いにした、でも紫ではない「茄子紺」であるとして、上手くお触れをすり抜けたのでは、と想像しています。

吉岡更紗
染織家・染司よしおか6代目
京都市生まれ、京都市在住。紫根、紅花、藍などすべて自然界に存在する染料で古法に倣い染織を行う「染司よしおか」の6代目。東大寺二月堂修二会や薬師寺花会式など古社寺の行事に染和紙を納める仕事もしているため、冬から春にかけてが一番好きな季節。美しい日本の色を生み出すために、日々研鑽を積む。
